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2010年4月18日日曜日

1990 - 1995 外資系投資信託会社事情 - 20世紀の遺物

1990年に初めての外資系運用会社に免許が与えられた。

1986年の投資顧問業法施行による外資系の投資顧問会社や、同じく1986年の外資系の信託銀行設立など、資産運用ビジネスが外資に開放され、その運用手法や投資対象に欧米で標準的に行われているものを取り入れつつあったのに比較すると、それまでの投資信託の業界は証券会社の完全子会社だけが免許を得て投信のファンドを運用するという、一種特殊な世界だった。

当初の外資系の投信会社は、運用は本国の日本株運用担当者を日本へ派遣して、日本人の運用担当者を指導育成しつつ現地での運用を行うという体制を引き、営業や業務管理については日本の市場や法制度に詳しい日本の投信会社の出身者を採用して任せていた。そこに大きな落とし穴があることにはだれも気が付かなかったし、気づいてもどうにも対処しかねるものだった。

それまで投信委託会社は14社しかなく、それもそれぞれ4大証券の系列の証券会社の子会社と言う中で投信の設定、販売が行われてきたところへ、全く独立したファンドの設定、販売戦略を持った外資系の運用会社が参入してきた事の重大さは今でもあまり議論されることはないが、当時の業界には画期的な事件だった。

基本的には親会社である証券会社の販売戦略に基づいたファンドの設定、運用を行うのが投信会社の使命であり、存在理由だった。つまり独自の運用手法や方針に基づいた設定、販売戦略と言うのは一切存在せず、営業部はなく、対販売会社の折衝は組織上は業務部と呼ばれる営業部隊が行っていた。つまり、営業ではなく単に証券会社の決めたことについて業務を進めるべくその要求を理解し実行することが求められていたのである。

そこに乱入したのが外資系の運用会社だった。外資系の運用会社は投信販売チャンネルを独占していた証券会社との直接の関係を持たず、当初のファンドの設定には相当な辛酸をなめた。1990年10月に日本のこの業界に参入を果たしたウォーバーグ投信、ジャーデン・フレミング投信は、そんな販売会社である証券会社中心の投信業界の環境の中で苦難の船出をしたのだった。

優れた運用をベースに販売戦略を立てるという、当り前の経営がなされていなかった当時の投信会社に、マーケティングやセールスを担う人間は育っていなかった。というより、そんな部門は無かった。外資系の投信会社は、販売チャンネルの開拓や販売会社との折衝の為、証券会社の投信企画の人間を高いお金を出して雇い入れようとしたが、もとより証券会社の投信企画は自社の営業部門の要請に応えようとする商品企画と自己勘定取引部門の為の投信を委託会社に設定させるための窓口。委託会社は、その運用能力を生かすとか、投資家のニーズにあった投資信託の設定などの発想は無く、優れた運用能力などを理解する姿勢や能力もなく、どうすれば証券会社が販売契約を結んでもらえそうなテーマや手数料体系にすれば良いか、しがらみだらけの経験から知恵を絞るのが精いっぱいという状況だった。

2010年4月14日水曜日

1990 - 1995 人間万事塞翁が馬 - 祭りの後

日本の資産バブルの絶頂期の90年に結婚し、中古の狭いマンションを高値でつかんで多額のローンを抱えた。自分で開発に係わったシステムや、それまで業務管理部門で築いた地位や経験を捨ててまでやってみたかった営業の職に1992年の夏、30歳を過ぎて初めて就いた。担当は資産運用ビジネスの顧客としては最悪期の金融機関だった。僅かばかり残っていた大口の顧客は、メキシコ債券ファンドが、1994年12月のメキシコ通貨危機で解約受付の停止を敢行し、ぼくは顧客とともに会社での居場所を無くしてしまった。

ぼくは慣れない営業職を潔く諦め、まもなく経験と実績のある業務管理の世界でやり直しをすることにした。外資系信託銀行のビジネスはすでに出来あがった既成の業界になりつつあり、年金や公的資金などの資産運用ビジネスの中心は外資の投信や投資顧問に移りつつあった。ぼくはそんな世界で生きていくことの覚悟を、遅ればせながら決めようとしていた。新卒から13年間勤めてきた会社を辞め、すでに日本で投信会社を有して、日本の資産運用業界に新風を吹き込もうとしていた別の外資系金融グループの信託銀行へと移籍した。

1995年2月、神戸大震災直後で地下鉄サリン事件直前の早春。初めての転職の決意に、密かに背中を押してくれたのは、その年、日本の球界からのサポートなしに単身アメリカの大リーグへの移籍を果たした野茂英雄の孤独な挑戦だった。

2010年4月13日火曜日

1993 - 1999 夜明けの来ない夜はない - ITバブルとミレニアムの頃

93年には戦後初めて非自民内閣の細川内閣が発足し、バブル景気で惰性のように伸び切った日本の社会にも変化の兆しが表れた。95年には日本人で単身初めて大リーグへ挑戦していた野茂英雄が、アメリカの大リーグで新人王獲得した。しかし同じころ、95年の神戸大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、日本の社会そのものも大いに揺れた時代だった。

それまで資産運用の中心だった法人の財務部や銀行、信託を中心とする機関投資家は、弾けたバブルから立ち直るまでの間、実際にはほとんどが二度と立ち直れずに、資産運用の市場からは遠のいていた。資金の出し手として代わって登場したのは、黙っていても毎月の掛け金を積み立ててくる企業年金や国民年金、郵便局や生命保険などの長期の積立資金の運用を預かる年金や機関投資家だった。1986年に施行された投資顧問業法により、当初は機関投資家や法人の資金運用を専門に行う専業の投資顧問業者が生まれ、バブル期を中心に証券系、銀行系、生損保系、外資金融系と外資独立系の投資顧問会社が乱立し、厚生年金法などの改正により、年金の資産運用へとそのビジネスを急速に拡大していった。

様々な業態から入り乱れて参入したこれらの投資顧問会社は、公的年金や厚生年金基金・適格年金の資金の運用委託を受けて一気に市場に溢れ出した。証券系をはじめ銀行系、生損保系、独立系、そして同様に外資系でも証券系、銀行系、生損保系などの投資顧問業者がそれぞれが得意とする、あるいはなけなしの運用手法を駆使して市場に参入を果たした。

また90年にはそれまで証券系10数社で独占してきた投資信託委託業の免許を初めて外資系の独立運用会社3社に対して与えられ、その後92年にさらに規制が緩和され、銀行系、生損保系の投信会社が誕生した。また、97年には投資顧問業と投資信託業の兼業も認められ、また98年12月の投信法や証券取引法の大改正により投信の銀行窓販などが始まると、その規模や数は一気に拡大していった。

時はまさに2000年問題をピークとした、ウィンドウズの普及期、インターネットの黎明期、95年の神戸大震災を機に一気に普及した携帯電話など、ITバブルがこれらの投資運用業者の業容の拡大に拍車をかけていた。

2010年4月5日月曜日

1989 - 1995 ベルリンの壁とバブル景気の崩壊の後 - 失われた10年

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊が象徴する東西冷戦の終焉と前後して日本のバブル景気がピークを迎えていた。でも、誰もそれが失われた20年の始まりだとは、すぐには気付かなかった。

日本がバブルにうかれ、それがはじけたことに気がつかぬ間に、民主化と経済の拡大が進んだ東アジアと、東西冷戦の終焉により旺盛な復興改革需要に湧いた東ヨーロッパ。世界の資金の大きな流れは相当程度に変化していた。しかしその急激で大きな変化によるひずみは、88年8月のロシア通貨危機、92年9月、93年7月の二度の欧州通貨危機、94年12月のメキシコ通貨危機へと繋がっていった。世界ではこれらのひずみをその管理下で望む方向での解決を図ろうと、アメリカはその影響力を発揮すべく、第三世界に牛耳られていた国連とは距離を置くGATTの延長線として95年に発足したWTO(世界貿易機構)においてその影響力を駆使し、自国有利のルールに基づく国際貿易自由化を加速しようとしていた。しかし、ミレニアムを迎えようとする99年のシアトル閣僚会議は、時の流れを止めて、変わらない夢を求める者たちによって予定されていた成果を得ることが出来ず、一旦この流れは収まったかに見えた。

80年代に蒔かれた変化の種は90年代に世界を大きく動かして行ったと同時に、ぼくの人生を大きく変えていくことになった。バブルのはじけた後の日本の金融経済の構造変化や世界の資金の流れの変化も知らず、個人的な興味から金融法人営業部に自ら異動したぼくを待っていたのは、塩漬けの金融資産を抱え、広げすぎた外国投資からの撤退するタイミングを見計らっていた日本の銀行、信託をはじめとする金融機関だった。

そんな激しい金融業界の構造変化、資金の流れの変化の流れに翻弄され、3年を待たずして次の流れの中へ身を投じることになった。外資系特有の内からの圧力と、外からの圧力と、絶妙なタイミングだった。

1982 - 1990 日米円ドル委員会からの金融市場開放の日々 - プラザ合意とウルグアイ・ラウンドからバブルへ

ぼくが外資系金融機関に就職したころから始まった日本の金融規制の緩和は1983年の日米円ドル委員会の提言を受けさらに加速、まさに国内の金融市場が国際競争にさらされようとしつつある局面にあった。

1985年9月22日に発表されたプラザ合意、翌86年9月に始まったGATTのウルグアイ・ラウンドはこれに拍車をかける。84年の外為実需原則の撤廃、85年の大口定期預金金利の自由化、87年のCP市場の創設、ワラントや転換社債の規制緩和。さらに86年の投資顧問業法の施行、特金やファントラと言った金銭信託による運用商品の普及。金融市場の開放を受け、急激に拡大した日本企業の資金の調達とハイリスクな投資運用は、膨大な借金と不良資産を残し、同時に金融機関は膨大な不良債権を残した。

82年に入社して2年間の財務部で銀行ビジネスの構造を学んだぼくは、まさに実需原則の撤廃された外為市場の業務の現場を経て、さらに外資系金融に解放されたばかりの信託銀行設立に駆り出されいった。これは83年11月の日米円ドル委員会の発表した4つの金融自由化の目玉の一つであったのだが、そこでは有り余る資金を初めて投資運用の世界に投じようとする企業の、政策投資以外の経験のない金融機関の羽目を外した無茶な投資がまかり通っていた。そんな中で地道に始まったのが、外資系信託銀行による海外を運用拠点とする国際分散投資。当時はまだ限られた機関投資家しか海外投資の経験は無く、まさに外資系の金融機関が日本の一般企業の資金運用や年金の運用市場に初めてもたらしたものだった。また、1987年6月9日に取引が始まった日本初の株式先物取引の株先50、続く88年9月3日の日経225先物の取引や89年6月の日経平均オプション取引も運用市場をさらに拡大させるものだった。

84年に1万円を超えた日経平均は、87年に2万円、88年には3万円を超え、89年の12月29日には史上最高値の38,915円を記録した。さらに都心部を中心とした不動産価格はそれ以上の上昇を示していた。

1986年に営業を開始したその外資系信託の受託資産は倍増に次ぐ倍増を重ね、90年暮れには一兆円を超える資産を運用していた。ぼくは自分一人で設計、コーディング、運営していた管理システムが2年を待たずして破綻するのを予測し、外人のプログラマーにシステムのリライトを依頼して、その運営を任せていたが、そのころにはそれさえ限界を迎えようとしていた。

会社はそんな僕にボーナスの代わりにご褒美として2か月の英国でのInternational Trainingに参加させた。昭和天皇の崩御の数カ月前の入退院を繰り返していた1988年の暮れのこと。帰国した僕を待っていたのはパンクしかけているシステムのリプレース・プロジェクト。そしてぼくは当時のアジア太平洋地区のシステム開発拠点だった香港で1990年から2年間、システム開発のプロジェクトチームと一緒に過ごすことになった。

バブル景気が永遠に続くと信じられていた1990年の春。20年前のこと。

1970 - 1982 人類の進歩と調和 - 大阪万博のころから日米円ドル委員会のころ

1970年3月、小学校5年生になる春休みに開幕した大阪万博は、人類の進歩と調和をテーマに、アメリカがアポロ宇宙船で採取してきた月の石を展示したり、当時のソ連館に展示されていたソユーズ宇宙船。また、今では当たり前になったけれど、会場内を移動できる動く歩道や電気自動車、モノレール、奇抜なパビリオン、50年後の日本をテーマにした三菱未来館、当時の電電公社のテレビ電話やなどもぼくの好奇心をすこぶるあおった。

大阪の北部に住んでいたぼくは、比較的距離が近いのもあって、かなり頻繁に万博会場へ足を運んだ。母親に連れられて兄と3人で、親父の運転するスーパーカブの後ろに乗せられて、禁止されていたけど土曜の午後に友人と2人でと、密かに全館制覇を目指して通っていた。

光化学スモッグと、なぜか男が立てこもっていた太陽の塔。人類の辛抱と長蛇、と揶揄されながらも日本のちょっと胡散臭い、そして輝かしいだろう未来の、むっとする熱気が漂っていた。また、初めて外国人をまじかに見た驚き。サイン帳を持ち歩いて外国人にサインをねだるのが流行りだった。あのサイン帳、どこに行ったんだろうか。

ちょっと胡散臭かったけど、確かに輝かしい未来が僕たちに約束されていた1970年の春。40年前のこと。

万博から10年、怒涛のような70年代が過ぎて行った。ニクソンショックからスミソニアン合意を経ての変動相場制への移行とそれに続いて起きた73年、79年の二度に渡るオイルショック。佐藤長期政権のあとの田中角栄内閣と、その後続いた黒幕政治による混迷。そんな混迷する社会の中で生まれたパーソナルコンピューターや爆発的なブームを呼んだテレビゲーム。ぼくはまじめでおとなしい中学生から、受験勉強はそこそこに水泳に明け暮れた高校生を経て、何とか第一志望で入った大学で、だらしのない生活を日々過ごしている大学生になっていた。

度重なるオイルショックからの回復と列島改造プロジェクト、育ちつつあった電子関連産業が日本の産業界の風景を変えようとしていた1980年の春。30年前のこと。

第二次オイルショックの後の不況から日本の経済が回復しつつあるころ、就職活動をしていた。内外の国際金融情勢からか、すでにバブル期の前兆が現れていたのか、金融機関は積極的に採用を進めており、天邪鬼のぼくは当時はまだだれも見向きもしない、あるいは敬遠していた某アメリカ系の商業銀行の東京支店に就職を決めた。

81年には新銀行法、83年4月の銀行による国債の窓販、同11月には日米円ドル委員会が大口預金金利の自由化や外国為替取引の実需原則の撤廃、円建BA市場の開設や外銀による信託業務参入などを提言し、日本の金融市場はその開放を迫られていた。そんな流れの中での外資系金融人生のスタートだった。1982年春のことである。

2010年4月3日土曜日

インターネットのこと 1995年2月

そもそもの始まりは親父の持ち帰ってきた卓上電子計算機なる物を見た時から始まったのかもしれない。

1970年代初頭には電子計算機は、卓上から液晶表示のポケットサイズへ劇的な進化を遂げた時期だった。僕が小学校から中学、高校へ通うころにはカード型が当たり前になっていた。そろばん塾に通って算数大好き少年だった僕は電卓の進化に興味津々だった。そしてまだ見ぬ、いわゆるコンピューターと言うものにも夢を膨らませていた。

1978年(昭和53年)に大学の授業で初めてコンピュータに出会った。大学の計算機室と呼ばれる空調の効いた部屋で、そいつは時々、かちゃかちゃ、じっじっ、だっだっだっだっ、と動いていた。その頃のテレビドラマやニュースで「コンピューター」に関する映像として典型的な大きなリールの記憶テープ、プログラムやデータを読み込むカードリーダと大きなドラム式のプリンターがストックフォームと呼ばれる専用紙に打ち出されるアウトプットが全て。

1982年、米系銀行に就職して初めて購入したPCはソードコンピューターのホビー用PCのM5。その銀行がソードコンピューターの表計算ソフトPIPSをメインに採用していた為に新入行員研修で受けたPIPS研修時に購入。テレビアンテナに繋いでテレビ画面をモニターに。

新入社員研修が終わって財務部に配属され、そこでアップルIIeに出会った。他部署は全てソードコンピューターを使っていたにも拘らず、そこではアップルの表計算ソフトVisiCalcを使っていたのだ。そいつは小さな箱のくせにペラペラのディスクにデータやプログラムをため込むことが出来たし、小さなプリンターに繋げば文字やグラフィックをアウトプットすることもできた。

その頃から1985年までアップルIIeのBasicを駆使して会社の顧客やセグメント別の予算管理システムの設計、コーディング、導入、運営を自分で勝手に進めた。単に電卓で集計、紙で報告書にまとめるのが面倒なだけだったので、使える道具で自動化させたかっただけだったけれど、会社は評価して表彰もされたりした。

1983年にNECから発売されたハンドヘルドコンピュータのPC8201を買った。たった4行の液晶表示のついた持ち運び可能なコンピューターだった。中古のテレフォンカプラーを購入して銀行の電子メールを自宅で読み書きすることも可能だった。

1985年に始まったアスキーネットの実験運転のモニターに応募してIDを貰い、初めてのチャットを経験。その実験が終了した87年に、ようやくその頃営業を開始したニフティサーブに参加した。

その年の秋から会社では信託銀行を立ち上げて資産運用ビジネスを始めようとしていた。経理業務と資金証券・為替業務の両方の経験を持つ僕が業務の立ち上げを担当することになった。会社は提携先の邦銀信託への2か月の研修をアレンジしてくれたが、システム開発や業務手続きの構築などの準備は全て僕に任された。信託銀行の帳簿システム、信託財産の記帳と証券取引の管理システムを一からIBMPCのDOSBASICで半年かけて作り上げた。またもやシステムの設計とコーディング、テストと導入、運営管理のすべてを一人でやっていた。

さすがに2年後には手製のシステムの破たんするのが目に見えてきたので会社が採用したプログラマーが当時の最先端のデータベースだったDbaseIIを使って僕のシステムのすべてを書き直し、運用管理を移すことになる。また同時にやはり発表されたばかりのオラクルを採用したホストコンピュータベースのシステムの開発を行うことになった。その為1990年から2年半、香港のシステム開発センターに駐在することとなった。

1993年に東京に戻って、前年に発売されたマッキントッシュLCIIとモデムを購入。アップル初のカラーディスプレイ標準装備の格安カラーマッキントッシュの二代目として、価格的に手の届くギリギリのものだった。子供が生まれる前にいろんなものを整理しておこうとして思い切って買ったのだった。

インターネットの存在を知ったのはそのもう少し前、ニフティのメールをインターネットメールに接続して、他のパソコン通信のメールを使っている友人や、インターネットメールの利用者とメールのやり取りを始めた頃だった。このころからニフティサーブ経由でCompuServeのIDを取得してインターネットへ接続。まだまだウェブサービスの始まる前のテキストベースでの接続。GOPHERやTELNET、FTP、MAILなどのコマンドを駆使しての利用だった。

1994年(平成7年)に日本初のISP(インターネットサービスプロバイダー)のIIJ(インターネット・イニシアティブ・ジャパン)を利用して自分のPCをダイヤルアップでインターネットに接続した。1分間50円と言う接続料金の高さに耐えられず、翌年から始まった格安ISPのベッコウアメインターネットに変更。そう言えばインターネットマガジンも創刊号からの愛読者だった。

<続く>

2010 - 最近のこと 平成22年春

いろんな人との係わりが、途切れては繋がり、離れては重なる。
いつの年も、「春」とはそういう季節なのだろうけれど、今年はいつもと相当違っている。

人との係わりは、やはり仕事関係が一番多く、特に今勤めている会社関係、今まで働いたことのある職場で同僚だった者たち。もちろん家族や親兄弟、学生時代の友人、それ以外の様々なご縁で知り合った人たち。
そういった人たちとの係わりは、消えないものだと思っている。たった一度出会っただけでも、毎日毎日顔を合わせていても、何れにしても、出会ったことはお互いの人生の中で消すことはできないもの。それが良い出会いであっても、最悪な出会いであっても。

昨年の暮れに、勤務先の会社、これは世界的な金融グループに属していたのだが、他社に買収されて、日本でも二つの会社が統合されることになった。そして、統合された。

今までも散々会社の統合や消滅で会社を辞めたり、辞めさせられたり、自分の都合で会社を変わったことは何度かあったが、自分が在籍したまま会社が統合するのは初めてだ。そんなコンテクストの中での、今年の春。

大量の出会いと、少なからずの別れが交錯してきた、ここ数か月。
去る者は日日に疎しかもしれないが、大量の出会いを消化するのには、相当な時間がかかりそう。それでも思うのは、やっぱり、出会ったことは取り消せない。これから一生付き合っていくことになる、一人一人との出会いを大切にしていきたいと思う。

まず始めること、それが大切

ブログでも、ツイッターでも良いと思った。
今までの様々な思いを、出来れば、出来るだけ、その時間、その場所を特定して思いだした端から、記憶の断片として書き溜めて、切りの良いところでまとめていく、そんな作業を繰り返していきたいと思う。
自分の為に。そして、係わってきた人たちの為に。
ジロー0623