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2010年10月21日木曜日

「グローバル金融攻防三十年」 太田康夫著

1982年に大学を卒業。好奇心だけで当時は珍しいアメリカの銀行の東京支店に就職。以来28年間、外資系金融、投資運用会社で日本の外資と言う小さな窓を通してグローバル金融の世界を見てきた自分にとって、まさにこの著者の目を通しての30年間のグローバル金融史は、金融業界の歴史を俯瞰しながら自分の足跡を辿るものだった。

80年代初頭の外資系の銀行は、厳しい規制により業務自身も縛られてはいたが、逆に競争にさらされることも無く、高い収益を確保しながら、モラルも高く、地味な仕事を着実のこなしていくインフラとカルチャーを有していた。
しかし、私が採用された1982年は、米国政府による日本金融市場開放を先取りした米銀が大量採用を始めた年で、それまでの約5倍の100名もの大量採用だった。まさに、その後の日米円ドル委員会による開放圧力、その後計測的に進む規制緩和により、世界の金融業界が変貌し始めよううとして採用した、規制緩和による業務拡大の為の新兵だったのだと思う。

年金などの資産運用業務参入を目指した86年の外資系信託銀行の設立とバブル景気や邦銀の海外進出、外資系証券の大量進出、90年代のバブル崩壊と国際業務の縮小、97年のシティコープとトラベラーズ合併に象徴される日米欧州での金融コングロマリット化、メガバンク化、2000年代に入ってからの、欧州通貨統合やITバブル、2001年の9・11、そしてサブプライムからリーマンショックへ。反動としてのボルカー規制の導入やBISのバーゼルⅢ、IFRS。

日本の資産運用業界で言えば、80年代後半の法人による資金運用から、90年代の年金の自由化や投信や投資顧問業務の法整備と規制緩和、公的年金主導の資産運用業の進展と拡大。業界や国境の壁を越えた大量の参入。2000年代後半になって整備されてきた包括的な金融法制、指導監督・検査体制。

世界規模での金融に係る規制緩和と自由化、国際化が、金融工学を発展させ、その市場の規模と地域的な広がり、商品の複雑化を加速した。それまで自らを律していた内部監査やリスク管理の態勢がこれに追い付くことは無く、後追いのまま潜在リスクが高まっていったように思う。

日本ではもともと金融機関は大蔵省の護送船団で保護されてきたため、自らの考えで商品を開発したりそのリスク管理の手法を開発できるはずも無く、大蔵省の判断で認めるものをいち早く察知し、これを他社より早く導入することを業界の競争原理としていたこと、また日本ではほとんどの先端的な金融商品は海外から持ち込まれたものだったため、頭の固い経営陣が自らその仕組みやリスクを理解する由もなく、競争上の理由あるいは収益確保の目的で導入するケースが多かったのではないか。

1998年の金融監督庁発足して、初めて日本でも国際的な枠組みでの競争を意識した規制当局が生まれ、プリンシプルベースの金融機関監督体制が徐々に整ってきたが、監督する方もされる方も、お互いに様子見をしながらの対応のため、非常に時間のかかるプロセスとなっている。

2010年10月9日土曜日

それから

アメリカで初めてのアフリカ系大統領のオバマ大統領が誕生し、日本では戦後初めての非自民の単独で衆院過半数を占める与党の民主党政権が誕生した。
これが新しい時代の到来なのか、混沌の末の試行錯誤なのかは解らない。今のところは。

世界と日本は交錯しながらその構造と仕組と成り立ちを変えようてしている。

なし崩し的に溶け合おうとして溶け合えない、混ざろうとして、混ざりきれない。それぞれはそれぞれとして、個別に存在感を示しながら、それを仕切ろうとしていた壁が、仕切りが低くなり、やがては全体が一つの器の中に共存する。

古い言葉でいえば弁証法か。一つになろうとして、ぶつかって、溶け合って、あるいは溶け合えなくて、また分裂していく。それぞれが全く別の新しいものとして。