1982年に大学を卒業。好奇心だけで当時は珍しいアメリカの銀行の東京支店に就職。以来28年間、外資系金融、投資運用会社で日本の外資と言う小さな窓を通してグローバル金融の世界を見てきた自分にとって、まさにこの著者の目を通しての30年間のグローバル金融史は、金融業界の歴史を俯瞰しながら自分の足跡を辿るものだった。
80年代初頭の外資系の銀行は、厳しい規制により業務自身も縛られてはいたが、逆に競争にさらされることも無く、高い収益を確保しながら、モラルも高く、地味な仕事を着実のこなしていくインフラとカルチャーを有していた。
しかし、私が採用された1982年は、米国政府による日本金融市場開放を先取りした米銀が大量採用を始めた年で、それまでの約5倍の100名もの大量採用だった。まさに、その後の日米円ドル委員会による開放圧力、その後計測的に進む規制緩和により、世界の金融業界が変貌し始めよううとして採用した、規制緩和による業務拡大の為の新兵だったのだと思う。
年金などの資産運用業務参入を目指した86年の外資系信託銀行の設立とバブル景気や邦銀の海外進出、外資系証券の大量進出、90年代のバブル崩壊と国際業務の縮小、97年のシティコープとトラベラーズ合併に象徴される日米欧州での金融コングロマリット化、メガバンク化、2000年代に入ってからの、欧州通貨統合やITバブル、2001年の9・11、そしてサブプライムからリーマンショックへ。反動としてのボルカー規制の導入やBISのバーゼルⅢ、IFRS。
日本の資産運用業界で言えば、80年代後半の法人による資金運用から、90年代の年金の自由化や投信や投資顧問業務の法整備と規制緩和、公的年金主導の資産運用業の進展と拡大。業界や国境の壁を越えた大量の参入。2000年代後半になって整備されてきた包括的な金融法制、指導監督・検査体制。
世界規模での金融に係る規制緩和と自由化、国際化が、金融工学を発展させ、その市場の規模と地域的な広がり、商品の複雑化を加速した。それまで自らを律していた内部監査やリスク管理の態勢がこれに追い付くことは無く、後追いのまま潜在リスクが高まっていったように思う。
日本ではもともと金融機関は大蔵省の護送船団で保護されてきたため、自らの考えで商品を開発したりそのリスク管理の手法を開発できるはずも無く、大蔵省の判断で認めるものをいち早く察知し、これを他社より早く導入することを業界の競争原理としていたこと、また日本ではほとんどの先端的な金融商品は海外から持ち込まれたものだったため、頭の固い経営陣が自らその仕組みやリスクを理解する由もなく、競争上の理由あるいは収益確保の目的で導入するケースが多かったのではないか。
1998年の金融監督庁発足して、初めて日本でも国際的な枠組みでの競争を意識した規制当局が生まれ、プリンシプルベースの金融機関監督体制が徐々に整ってきたが、監督する方もされる方も、お互いに様子見をしながらの対応のため、非常に時間のかかるプロセスとなっている。
2010年10月21日木曜日
2010年10月9日土曜日
それから
アメリカで初めてのアフリカ系大統領のオバマ大統領が誕生し、日本では戦後初めての非自民の単独で衆院過半数を占める与党の民主党政権が誕生した。
これが新しい時代の到来なのか、混沌の末の試行錯誤なのかは解らない。今のところは。
世界と日本は交錯しながらその構造と仕組と成り立ちを変えようてしている。
なし崩し的に溶け合おうとして溶け合えない、混ざろうとして、混ざりきれない。それぞれはそれぞれとして、個別に存在感を示しながら、それを仕切ろうとしていた壁が、仕切りが低くなり、やがては全体が一つの器の中に共存する。
古い言葉でいえば弁証法か。一つになろうとして、ぶつかって、溶け合って、あるいは溶け合えなくて、また分裂していく。それぞれが全く別の新しいものとして。
これが新しい時代の到来なのか、混沌の末の試行錯誤なのかは解らない。今のところは。
世界と日本は交錯しながらその構造と仕組と成り立ちを変えようてしている。
なし崩し的に溶け合おうとして溶け合えない、混ざろうとして、混ざりきれない。それぞれはそれぞれとして、個別に存在感を示しながら、それを仕切ろうとしていた壁が、仕切りが低くなり、やがては全体が一つの器の中に共存する。
古い言葉でいえば弁証法か。一つになろうとして、ぶつかって、溶け合って、あるいは溶け合えなくて、また分裂していく。それぞれが全く別の新しいものとして。
2010年8月22日日曜日
2001 - 2009 あの頃には、もどれない - 続く変化の時代
2001年の夏。1999年から立ち上げた英国金融法人の日本の運用子会社をやむをえない事情で去った後、米系の老舗運用会社へ移籍。不運にも転職した2ヶ月後にその会社の身売りが発表され、翌年春にその会社は消滅することに。その間、911の米国多発テロが起きたが、既に予定していたニューヨーク本社の訪問を直後に敢行した。前年のITバブル崩壊、2001年の911テロ、2003年3月に始まったイラク戦争と世界の仕組みの再考を促すような事件が続く。2002年春の勤務先米系運用会社の売却にあたり、古巣の米銀系信託銀行へ職を得る。全てが振り出しに戻った。
日本の金融業界は、バブル経済の後始末を2001年4月の住友銀行とさくら銀行の合併、2005年10月の東京三菱によるUFJの救済合併など、行政主導の金融機関の再編により不良債権問題にもけりをつけようとしていた。金融庁主導の資産査定の厳格化や独立した金融検査の実施による経営の独立化が進んでいた。
同時に外資系金融機関にも同様のメスが入れられた。本国では米国のSOX法対応や厳しくなるBIS規制への対応を進めているくせに、日本の金融当局を見くびっていた外資系金融や外資系証券は検査対応に追われた。2004年のシティグループ等のスキャンダルや、次々と挙げられた類似の事象に、日本の金融業界は一気にコンプライアンスの時代に入っていった。そんな中で、2004年12月の改正信託業法の施行、2007年9月の金融商品取引法や新信託法の施行、関連諸法例の改正など。外資を含む金融機関や証券会社のビジネスをめぐる環境は大きく変わった。
世界中で、法令遵守にかかるリスクとコストは上昇し、またサブプライム問題を原因として起きた2008年9月のリーマンショックは業界の統合と淘汰を進めた。
2002年に戻った米系の信託は2004年秋に廃業を決め、2005年の夏に別の米系のコンサルティング業務を兼営するユニークな運用会社へ、さらに景気の盛り返していた2006年の夏には世界最大級の米国の資産運用会社の持つ米系信託へ移籍した。しかし世の中の流れは統合、淘汰へ向かっていた。信託は運用業務を資産運用会社へ移管したうえで売却され、移った運用会社は気が付いたら、別の世界最大級の独立系資産運用会社に買収されようとしていた。
2009年夏。
日本の金融業界は、バブル経済の後始末を2001年4月の住友銀行とさくら銀行の合併、2005年10月の東京三菱によるUFJの救済合併など、行政主導の金融機関の再編により不良債権問題にもけりをつけようとしていた。金融庁主導の資産査定の厳格化や独立した金融検査の実施による経営の独立化が進んでいた。
同時に外資系金融機関にも同様のメスが入れられた。本国では米国のSOX法対応や厳しくなるBIS規制への対応を進めているくせに、日本の金融当局を見くびっていた外資系金融や外資系証券は検査対応に追われた。2004年のシティグループ等のスキャンダルや、次々と挙げられた類似の事象に、日本の金融業界は一気にコンプライアンスの時代に入っていった。そんな中で、2004年12月の改正信託業法の施行、2007年9月の金融商品取引法や新信託法の施行、関連諸法例の改正など。外資を含む金融機関や証券会社のビジネスをめぐる環境は大きく変わった。
世界中で、法令遵守にかかるリスクとコストは上昇し、またサブプライム問題を原因として起きた2008年9月のリーマンショックは業界の統合と淘汰を進めた。
2002年に戻った米系の信託は2004年秋に廃業を決め、2005年の夏に別の米系のコンサルティング業務を兼営するユニークな運用会社へ、さらに景気の盛り返していた2006年の夏には世界最大級の米国の資産運用会社の持つ米系信託へ移籍した。しかし世の中の流れは統合、淘汰へ向かっていた。信託は運用業務を資産運用会社へ移管したうえで売却され、移った運用会社は気が付いたら、別の世界最大級の独立系資産運用会社に買収されようとしていた。
2009年夏。
2010年7月9日金曜日
2005 - 2008 サブプライムとBRICs
ITバブルのしぼんだ後の米国、誰も予想しなかったあの、911後の世界。微妙にずれてくる大国と小国、先進国と途上国の関係。
世界は今までになくお互いに密接に繋がっていて、どの国も、一国だけでは、いや、他の国無くしては存在しえない。相互依存の関係は明白なのに、政治家や官僚たちの存在意義を守るために存在する国境。EUを突いては振り回す統合と相互依存の危うい関係。どちらが先でどちらがあとなのか。20世紀までは、国と国とは点と線でお互いに繋がっていたが、今や面で繋がり、一部ではお互いの中に侵入してその部分を共有していたりする。
新興国?BRICs?インターネットや交通通信網で繋がった世界は、同じ速さで携帯やパソコンが世界中に浸透し、情報の伝達や各種形を変えたソフトの普及は、今や先進国も後進国もなくなっている。アメリカで不動産バブルが起きれば、これはリアルタイムで他の国の市場に直接影響を与え、またその反作用も受ける。アメリカに限らない。
世界は今までになくお互いに密接に繋がっていて、どの国も、一国だけでは、いや、他の国無くしては存在しえない。相互依存の関係は明白なのに、政治家や官僚たちの存在意義を守るために存在する国境。EUを突いては振り回す統合と相互依存の危うい関係。どちらが先でどちらがあとなのか。20世紀までは、国と国とは点と線でお互いに繋がっていたが、今や面で繋がり、一部ではお互いの中に侵入してその部分を共有していたりする。
新興国?BRICs?インターネットや交通通信網で繋がった世界は、同じ速さで携帯やパソコンが世界中に浸透し、情報の伝達や各種形を変えたソフトの普及は、今や先進国も後進国もなくなっている。アメリカで不動産バブルが起きれば、これはリアルタイムで他の国の市場に直接影響を与え、またその反作用も受ける。アメリカに限らない。
2010年7月7日水曜日
2002 - 2005 米国多発テロ以降の世界
2001年の911以降、世界は変った。ITバブルは終わり、企業経営の倫理が問われ、エンロンやワールドコム、シティブループなどの経営者の倫理が問われた。米国ではSOX法が施行され、企業の内部管理体制、適宜、適切な経営内容の開示が求められるようになった。既に崩れかけていた何かが、音を立てて崩れ去り、そのあとに砂上の楼閣を築こうとするような作業に思えた。
日本の金融業界はやはり崩壊の危機にあった。外資系はなおさら厳しい競争を強いられていた。911以降の膠着する世界貿易と世界経済。回復しない世界景気に積み上がる不良債権に日本の銀行は押し潰されんばかりだった。弱者救済や相互補完という名目で数ある都市銀行が国による資本の注入、金融庁の指導に背中を押され、メガバンクをめざし一年以上の時間を掛けかけて合併の準備して、合併後さらに数年をかけて営業店や業務の統合を果たし、さらに何年もかけて経営統合を進めようとしていた。国家挙げての日本のダメダメ銀行救済プロジェクト。そしてダメダメ銀行の融資先だったダメダメ会社の多くはゾンビ企業として税金を食いつぶし、これまた国家プロジェクトの再生機構に放り込まれて、分別されて、運が良ければリサイクルされた。
この間、低迷する先進各国経済をよそに、その活力を奪うかのように、またその機能不全を補うかのようにインド、中国、ロシア、ブラジル、さらに東欧や東南アジア、南アフリカなどにお金と人と仕事がながれ、見た目経済は目覚ましい伸びを見せた。ITバブルで張り巡らされたインターネットのデータ通信網と国際物流網が先進国とその他の地域を結び、様々なものを結びつけた。それまでは考えられない、あり得ない組み合わせのコラボレーションや情報の流れ、プロセスの革命がこれらの間で起こった。お金と情報とが世界中で最も有利だとされるところに瞬く間に集まり、最後についていくのは人間だったかもしれない。
そんな中で日本は、少しずつ、見えない程度に、感じない程度に、しかし結果的には驚くべきスピードで世界から取り残されていった。
日本の金融業界はやはり崩壊の危機にあった。外資系はなおさら厳しい競争を強いられていた。911以降の膠着する世界貿易と世界経済。回復しない世界景気に積み上がる不良債権に日本の銀行は押し潰されんばかりだった。弱者救済や相互補完という名目で数ある都市銀行が国による資本の注入、金融庁の指導に背中を押され、メガバンクをめざし一年以上の時間を掛けかけて合併の準備して、合併後さらに数年をかけて営業店や業務の統合を果たし、さらに何年もかけて経営統合を進めようとしていた。国家挙げての日本のダメダメ銀行救済プロジェクト。そしてダメダメ銀行の融資先だったダメダメ会社の多くはゾンビ企業として税金を食いつぶし、これまた国家プロジェクトの再生機構に放り込まれて、分別されて、運が良ければリサイクルされた。
この間、低迷する先進各国経済をよそに、その活力を奪うかのように、またその機能不全を補うかのようにインド、中国、ロシア、ブラジル、さらに東欧や東南アジア、南アフリカなどにお金と人と仕事がながれ、見た目経済は目覚ましい伸びを見せた。ITバブルで張り巡らされたインターネットのデータ通信網と国際物流網が先進国とその他の地域を結び、様々なものを結びつけた。それまでは考えられない、あり得ない組み合わせのコラボレーションや情報の流れ、プロセスの革命がこれらの間で起こった。お金と情報とが世界中で最も有利だとされるところに瞬く間に集まり、最後についていくのは人間だったかもしれない。
そんな中で日本は、少しずつ、見えない程度に、感じない程度に、しかし結果的には驚くべきスピードで世界から取り残されていった。
2010年6月21日月曜日
1999 - 2001 ITバブルから911
世界はインターネットのインフラ投資、携帯電話の爆発的な普及に加えて、2000年対応、ミレニアム対応と、IT業界に関係する金融や不動産を含むバブル経済に沸いていた。
日本では投資信託法や証券取引法の改正による一種の投資バブルとITバブルが重なり合い、花形ファンドマネジャーや強大な外資の運用会社による進出、大型投信の設定に沸いていた。先のバブルから10年ほども経っていないというのに、市場の構造の不備もあり、IT関連企業を中心に再びバブル経済が広がって、そしてはじけた。そして、2001年の911の同時多発テロが世界の交通、物流に急ブレーキをかけた。日本ではメガバンクのさらなる再編が起き、金融機関の淘汰が進んだ。
しかし、しぼんだITバブルは格安の光通信インフラを世界中に遺産として残すことになった。インドや中国を中心とする新興国、BRICsと呼ばれる国々は、新しく、格安の通信インフラと先進国からの投資マネーを受け入れ欧米に代わる世界経済の牽引車となりつつあった。
日本では投資信託法や証券取引法の改正による一種の投資バブルとITバブルが重なり合い、花形ファンドマネジャーや強大な外資の運用会社による進出、大型投信の設定に沸いていた。先のバブルから10年ほども経っていないというのに、市場の構造の不備もあり、IT関連企業を中心に再びバブル経済が広がって、そしてはじけた。そして、2001年の911の同時多発テロが世界の交通、物流に急ブレーキをかけた。日本ではメガバンクのさらなる再編が起き、金融機関の淘汰が進んだ。
しかし、しぼんだITバブルは格安の光通信インフラを世界中に遺産として残すことになった。インドや中国を中心とする新興国、BRICsと呼ばれる国々は、新しく、格安の通信インフラと先進国からの投資マネーを受け入れ欧米に代わる世界経済の牽引車となりつつあった。
2010年5月30日日曜日
1995 - 2000 改正投信法とITバブル
1998年に証券取引法とともに投資法が改正された。
それまで免許を必要としていた証券業は登録に、同様に免許が必要だった投信委託業は認可へその基準が緩和された。また登録金融機関として銀行、生損保が投信販売を開始。銀行系、生損保系、外資系の投信会社を相次いで設立され、営業を開始した。それまで証券会社にしか版図を持てなかった投信会社は、一気に銀行へ販売委託の営業攻勢をかけた。
系列の証券会社などに縛られない外資系の投信会社は、金融グループにあるものはそのグループの名をうたい文句に、外資独立系の投信会社(当時はまだ本邦の独立系は皆無だった)の大手は本国の仕組みを持ち込み、そうでないところも独自の運用スタイルで、大手金融グループ、地銀、地方の信金信組に至るまで全国行脚の投信販売もう開拓に走った。
時はITバブルが走り出した1998年12月。システム業界の2000年問題対応、携帯電話やインターネットの普及で、IT業界がその他の産業を巻き込んで大きな相場を作ろうとしていた。
80年代後半の資産バブル、90年代終わりのITバブル。一生に2度のバブルを経験した。恩恵を被ったことは無いけれど、人の愚かさとエネルギーの凄まじさを見せつけられた。社会のシステムや人の理性のどこかに歪みが生じると、すごいエネルギーが流れ込み、荒れ狂い、やがて社会全体と最も弱いところに大きな傷を残して一気に収束してしまう。
それまで免許を必要としていた証券業は登録に、同様に免許が必要だった投信委託業は認可へその基準が緩和された。また登録金融機関として銀行、生損保が投信販売を開始。銀行系、生損保系、外資系の投信会社を相次いで設立され、営業を開始した。それまで証券会社にしか版図を持てなかった投信会社は、一気に銀行へ販売委託の営業攻勢をかけた。
系列の証券会社などに縛られない外資系の投信会社は、金融グループにあるものはそのグループの名をうたい文句に、外資独立系の投信会社(当時はまだ本邦の独立系は皆無だった)の大手は本国の仕組みを持ち込み、そうでないところも独自の運用スタイルで、大手金融グループ、地銀、地方の信金信組に至るまで全国行脚の投信販売もう開拓に走った。
時はITバブルが走り出した1998年12月。システム業界の2000年問題対応、携帯電話やインターネットの普及で、IT業界がその他の産業を巻き込んで大きな相場を作ろうとしていた。
80年代後半の資産バブル、90年代終わりのITバブル。一生に2度のバブルを経験した。恩恵を被ったことは無いけれど、人の愚かさとエネルギーの凄まじさを見せつけられた。社会のシステムや人の理性のどこかに歪みが生じると、すごいエネルギーが流れ込み、荒れ狂い、やがて社会全体と最も弱いところに大きな傷を残して一気に収束してしまう。
2010年5月22日土曜日
1995 - 2001 投信と投資顧問の時代
1995年、新卒で入った米系の金融グループは本国の不動産バブルでダメージを受けてコアビジネスへの回帰を目指していた。グループ内での資産運用ビジネスの地位は極端に低下した。アジアの出先の日本での信託を器にした、重たくて収益性の低いビジネスは停滞していた。
2月に移籍した先は欧州系の資産運用をコアのビジネスとする金融グループ。日本でも信託、投資顧問、投資信託の3つの会社を持ち、日本の業界での最先端を目指していた。特に外資系や独立系の運用会社に解放されたばかりの投資信託ビジネスは、フロンティアだった。新しい試みを実現しようとしたが、旧投信法の下、旧来の証券会社しか販売チャンネルとして与えられていない不自由さ、販売会社がリードする旧来のルールやしきたりに苦しんだ。信託銀行の立ち上げ以上に苦しい、人生二度目の大きなチャレンジだった。
そんな中でのさらなる金融の自由化が進んだ。投資顧問業との兼業が認可されるようになり、さらに1998年には投信法が大幅に改正され、銀行による窓販ルートの開拓、認可基準の緩和などがこの間に一気に進んだ。銀行による販売業務への進出、銀行系、生保系、その他独立系の投信会社の設立、参入。
2005年に移籍したのはその欧州系金融グループの信託、その後すぐに投信会社へ、そして投資顧問会社との統合準備、グループの提携先の日本法人の投信ビジネス立ち上げの支援と、環境の変化そのままにめまぐるしく役割は変わっていった。
1999年に英系保険グループが、そんな経験を見込んで、その日本現地法人の設立とビジネスの認可取得、投信ビジネスの立ち上げへの参加の要請をしてきた。それまでの経験を全て生かせるチャンスが到来した。
2月に移籍した先は欧州系の資産運用をコアのビジネスとする金融グループ。日本でも信託、投資顧問、投資信託の3つの会社を持ち、日本の業界での最先端を目指していた。特に外資系や独立系の運用会社に解放されたばかりの投資信託ビジネスは、フロンティアだった。新しい試みを実現しようとしたが、旧投信法の下、旧来の証券会社しか販売チャンネルとして与えられていない不自由さ、販売会社がリードする旧来のルールやしきたりに苦しんだ。信託銀行の立ち上げ以上に苦しい、人生二度目の大きなチャレンジだった。
そんな中でのさらなる金融の自由化が進んだ。投資顧問業との兼業が認可されるようになり、さらに1998年には投信法が大幅に改正され、銀行による窓販ルートの開拓、認可基準の緩和などがこの間に一気に進んだ。銀行による販売業務への進出、銀行系、生保系、その他独立系の投信会社の設立、参入。
2005年に移籍したのはその欧州系金融グループの信託、その後すぐに投信会社へ、そして投資顧問会社との統合準備、グループの提携先の日本法人の投信ビジネス立ち上げの支援と、環境の変化そのままにめまぐるしく役割は変わっていった。
1999年に英系保険グループが、そんな経験を見込んで、その日本現地法人の設立とビジネスの認可取得、投信ビジネスの立ち上げへの参加の要請をしてきた。それまでの経験を全て生かせるチャンスが到来した。
2010年4月18日日曜日
1990 - 1995 外資系投資信託会社事情 - 20世紀の遺物
1990年に初めての外資系運用会社に免許が与えられた。
1986年の投資顧問業法施行による外資系の投資顧問会社や、同じく1986年の外資系の信託銀行設立など、資産運用ビジネスが外資に開放され、その運用手法や投資対象に欧米で標準的に行われているものを取り入れつつあったのに比較すると、それまでの投資信託の業界は証券会社の完全子会社だけが免許を得て投信のファンドを運用するという、一種特殊な世界だった。
当初の外資系の投信会社は、運用は本国の日本株運用担当者を日本へ派遣して、日本人の運用担当者を指導育成しつつ現地での運用を行うという体制を引き、営業や業務管理については日本の市場や法制度に詳しい日本の投信会社の出身者を採用して任せていた。そこに大きな落とし穴があることにはだれも気が付かなかったし、気づいてもどうにも対処しかねるものだった。
それまで投信委託会社は14社しかなく、それもそれぞれ4大証券の系列の証券会社の子会社と言う中で投信の設定、販売が行われてきたところへ、全く独立したファンドの設定、販売戦略を持った外資系の運用会社が参入してきた事の重大さは今でもあまり議論されることはないが、当時の業界には画期的な事件だった。
基本的には親会社である証券会社の販売戦略に基づいたファンドの設定、運用を行うのが投信会社の使命であり、存在理由だった。つまり独自の運用手法や方針に基づいた設定、販売戦略と言うのは一切存在せず、営業部はなく、対販売会社の折衝は組織上は業務部と呼ばれる営業部隊が行っていた。つまり、営業ではなく単に証券会社の決めたことについて業務を進めるべくその要求を理解し実行することが求められていたのである。
そこに乱入したのが外資系の運用会社だった。外資系の運用会社は投信販売チャンネルを独占していた証券会社との直接の関係を持たず、当初のファンドの設定には相当な辛酸をなめた。1990年10月に日本のこの業界に参入を果たしたウォーバーグ投信、ジャーデン・フレミング投信は、そんな販売会社である証券会社中心の投信業界の環境の中で苦難の船出をしたのだった。
優れた運用をベースに販売戦略を立てるという、当り前の経営がなされていなかった当時の投信会社に、マーケティングやセールスを担う人間は育っていなかった。というより、そんな部門は無かった。外資系の投信会社は、販売チャンネルの開拓や販売会社との折衝の為、証券会社の投信企画の人間を高いお金を出して雇い入れようとしたが、もとより証券会社の投信企画は自社の営業部門の要請に応えようとする商品企画と自己勘定取引部門の為の投信を委託会社に設定させるための窓口。委託会社は、その運用能力を生かすとか、投資家のニーズにあった投資信託の設定などの発想は無く、優れた運用能力などを理解する姿勢や能力もなく、どうすれば証券会社が販売契約を結んでもらえそうなテーマや手数料体系にすれば良いか、しがらみだらけの経験から知恵を絞るのが精いっぱいという状況だった。
1986年の投資顧問業法施行による外資系の投資顧問会社や、同じく1986年の外資系の信託銀行設立など、資産運用ビジネスが外資に開放され、その運用手法や投資対象に欧米で標準的に行われているものを取り入れつつあったのに比較すると、それまでの投資信託の業界は証券会社の完全子会社だけが免許を得て投信のファンドを運用するという、一種特殊な世界だった。
当初の外資系の投信会社は、運用は本国の日本株運用担当者を日本へ派遣して、日本人の運用担当者を指導育成しつつ現地での運用を行うという体制を引き、営業や業務管理については日本の市場や法制度に詳しい日本の投信会社の出身者を採用して任せていた。そこに大きな落とし穴があることにはだれも気が付かなかったし、気づいてもどうにも対処しかねるものだった。
それまで投信委託会社は14社しかなく、それもそれぞれ4大証券の系列の証券会社の子会社と言う中で投信の設定、販売が行われてきたところへ、全く独立したファンドの設定、販売戦略を持った外資系の運用会社が参入してきた事の重大さは今でもあまり議論されることはないが、当時の業界には画期的な事件だった。
基本的には親会社である証券会社の販売戦略に基づいたファンドの設定、運用を行うのが投信会社の使命であり、存在理由だった。つまり独自の運用手法や方針に基づいた設定、販売戦略と言うのは一切存在せず、営業部はなく、対販売会社の折衝は組織上は業務部と呼ばれる営業部隊が行っていた。つまり、営業ではなく単に証券会社の決めたことについて業務を進めるべくその要求を理解し実行することが求められていたのである。
そこに乱入したのが外資系の運用会社だった。外資系の運用会社は投信販売チャンネルを独占していた証券会社との直接の関係を持たず、当初のファンドの設定には相当な辛酸をなめた。1990年10月に日本のこの業界に参入を果たしたウォーバーグ投信、ジャーデン・フレミング投信は、そんな販売会社である証券会社中心の投信業界の環境の中で苦難の船出をしたのだった。
優れた運用をベースに販売戦略を立てるという、当り前の経営がなされていなかった当時の投信会社に、マーケティングやセールスを担う人間は育っていなかった。というより、そんな部門は無かった。外資系の投信会社は、販売チャンネルの開拓や販売会社との折衝の為、証券会社の投信企画の人間を高いお金を出して雇い入れようとしたが、もとより証券会社の投信企画は自社の営業部門の要請に応えようとする商品企画と自己勘定取引部門の為の投信を委託会社に設定させるための窓口。委託会社は、その運用能力を生かすとか、投資家のニーズにあった投資信託の設定などの発想は無く、優れた運用能力などを理解する姿勢や能力もなく、どうすれば証券会社が販売契約を結んでもらえそうなテーマや手数料体系にすれば良いか、しがらみだらけの経験から知恵を絞るのが精いっぱいという状況だった。
2010年4月14日水曜日
1990 - 1995 人間万事塞翁が馬 - 祭りの後
日本の資産バブルの絶頂期の90年に結婚し、中古の狭いマンションを高値でつかんで多額のローンを抱えた。自分で開発に係わったシステムや、それまで業務管理部門で築いた地位や経験を捨ててまでやってみたかった営業の職に1992年の夏、30歳を過ぎて初めて就いた。担当は資産運用ビジネスの顧客としては最悪期の金融機関だった。僅かばかり残っていた大口の顧客は、メキシコ債券ファンドが、1994年12月のメキシコ通貨危機で解約受付の停止を敢行し、ぼくは顧客とともに会社での居場所を無くしてしまった。
ぼくは慣れない営業職を潔く諦め、まもなく経験と実績のある業務管理の世界でやり直しをすることにした。外資系信託銀行のビジネスはすでに出来あがった既成の業界になりつつあり、年金や公的資金などの資産運用ビジネスの中心は外資の投信や投資顧問に移りつつあった。ぼくはそんな世界で生きていくことの覚悟を、遅ればせながら決めようとしていた。新卒から13年間勤めてきた会社を辞め、すでに日本で投信会社を有して、日本の資産運用業界に新風を吹き込もうとしていた別の外資系金融グループの信託銀行へと移籍した。
1995年2月、神戸大震災直後で地下鉄サリン事件直前の早春。初めての転職の決意に、密かに背中を押してくれたのは、その年、日本の球界からのサポートなしに単身アメリカの大リーグへの移籍を果たした野茂英雄の孤独な挑戦だった。
ぼくは慣れない営業職を潔く諦め、まもなく経験と実績のある業務管理の世界でやり直しをすることにした。外資系信託銀行のビジネスはすでに出来あがった既成の業界になりつつあり、年金や公的資金などの資産運用ビジネスの中心は外資の投信や投資顧問に移りつつあった。ぼくはそんな世界で生きていくことの覚悟を、遅ればせながら決めようとしていた。新卒から13年間勤めてきた会社を辞め、すでに日本で投信会社を有して、日本の資産運用業界に新風を吹き込もうとしていた別の外資系金融グループの信託銀行へと移籍した。
1995年2月、神戸大震災直後で地下鉄サリン事件直前の早春。初めての転職の決意に、密かに背中を押してくれたのは、その年、日本の球界からのサポートなしに単身アメリカの大リーグへの移籍を果たした野茂英雄の孤独な挑戦だった。
2010年4月13日火曜日
1993 - 1999 夜明けの来ない夜はない - ITバブルとミレニアムの頃
93年には戦後初めて非自民内閣の細川内閣が発足し、バブル景気で惰性のように伸び切った日本の社会にも変化の兆しが表れた。95年には日本人で単身初めて大リーグへ挑戦していた野茂英雄が、アメリカの大リーグで新人王獲得した。しかし同じころ、95年の神戸大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、日本の社会そのものも大いに揺れた時代だった。
それまで資産運用の中心だった法人の財務部や銀行、信託を中心とする機関投資家は、弾けたバブルから立ち直るまでの間、実際にはほとんどが二度と立ち直れずに、資産運用の市場からは遠のいていた。資金の出し手として代わって登場したのは、黙っていても毎月の掛け金を積み立ててくる企業年金や国民年金、郵便局や生命保険などの長期の積立資金の運用を預かる年金や機関投資家だった。1986年に施行された投資顧問業法により、当初は機関投資家や法人の資金運用を専門に行う専業の投資顧問業者が生まれ、バブル期を中心に証券系、銀行系、生損保系、外資金融系と外資独立系の投資顧問会社が乱立し、厚生年金法などの改正により、年金の資産運用へとそのビジネスを急速に拡大していった。
様々な業態から入り乱れて参入したこれらの投資顧問会社は、公的年金や厚生年金基金・適格年金の資金の運用委託を受けて一気に市場に溢れ出した。証券系をはじめ銀行系、生損保系、独立系、そして同様に外資系でも証券系、銀行系、生損保系などの投資顧問業者がそれぞれが得意とする、あるいはなけなしの運用手法を駆使して市場に参入を果たした。
また90年にはそれまで証券系10数社で独占してきた投資信託委託業の免許を初めて外資系の独立運用会社3社に対して与えられ、その後92年にさらに規制が緩和され、銀行系、生損保系の投信会社が誕生した。また、97年には投資顧問業と投資信託業の兼業も認められ、また98年12月の投信法や証券取引法の大改正により投信の銀行窓販などが始まると、その規模や数は一気に拡大していった。
時はまさに2000年問題をピークとした、ウィンドウズの普及期、インターネットの黎明期、95年の神戸大震災を機に一気に普及した携帯電話など、ITバブルがこれらの投資運用業者の業容の拡大に拍車をかけていた。
それまで資産運用の中心だった法人の財務部や銀行、信託を中心とする機関投資家は、弾けたバブルから立ち直るまでの間、実際にはほとんどが二度と立ち直れずに、資産運用の市場からは遠のいていた。資金の出し手として代わって登場したのは、黙っていても毎月の掛け金を積み立ててくる企業年金や国民年金、郵便局や生命保険などの長期の積立資金の運用を預かる年金や機関投資家だった。1986年に施行された投資顧問業法により、当初は機関投資家や法人の資金運用を専門に行う専業の投資顧問業者が生まれ、バブル期を中心に証券系、銀行系、生損保系、外資金融系と外資独立系の投資顧問会社が乱立し、厚生年金法などの改正により、年金の資産運用へとそのビジネスを急速に拡大していった。
様々な業態から入り乱れて参入したこれらの投資顧問会社は、公的年金や厚生年金基金・適格年金の資金の運用委託を受けて一気に市場に溢れ出した。証券系をはじめ銀行系、生損保系、独立系、そして同様に外資系でも証券系、銀行系、生損保系などの投資顧問業者がそれぞれが得意とする、あるいはなけなしの運用手法を駆使して市場に参入を果たした。
また90年にはそれまで証券系10数社で独占してきた投資信託委託業の免許を初めて外資系の独立運用会社3社に対して与えられ、その後92年にさらに規制が緩和され、銀行系、生損保系の投信会社が誕生した。また、97年には投資顧問業と投資信託業の兼業も認められ、また98年12月の投信法や証券取引法の大改正により投信の銀行窓販などが始まると、その規模や数は一気に拡大していった。
時はまさに2000年問題をピークとした、ウィンドウズの普及期、インターネットの黎明期、95年の神戸大震災を機に一気に普及した携帯電話など、ITバブルがこれらの投資運用業者の業容の拡大に拍車をかけていた。
2010年4月5日月曜日
1989 - 1995 ベルリンの壁とバブル景気の崩壊の後 - 失われた10年
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊が象徴する東西冷戦の終焉と前後して日本のバブル景気がピークを迎えていた。でも、誰もそれが失われた20年の始まりだとは、すぐには気付かなかった。
日本がバブルにうかれ、それがはじけたことに気がつかぬ間に、民主化と経済の拡大が進んだ東アジアと、東西冷戦の終焉により旺盛な復興改革需要に湧いた東ヨーロッパ。世界の資金の大きな流れは相当程度に変化していた。しかしその急激で大きな変化によるひずみは、88年8月のロシア通貨危機、92年9月、93年7月の二度の欧州通貨危機、94年12月のメキシコ通貨危機へと繋がっていった。世界ではこれらのひずみをその管理下で望む方向での解決を図ろうと、アメリカはその影響力を発揮すべく、第三世界に牛耳られていた国連とは距離を置くGATTの延長線として95年に発足したWTO(世界貿易機構)においてその影響力を駆使し、自国有利のルールに基づく国際貿易自由化を加速しようとしていた。しかし、ミレニアムを迎えようとする99年のシアトル閣僚会議は、時の流れを止めて、変わらない夢を求める者たちによって予定されていた成果を得ることが出来ず、一旦この流れは収まったかに見えた。
80年代に蒔かれた変化の種は90年代に世界を大きく動かして行ったと同時に、ぼくの人生を大きく変えていくことになった。バブルのはじけた後の日本の金融経済の構造変化や世界の資金の流れの変化も知らず、個人的な興味から金融法人営業部に自ら異動したぼくを待っていたのは、塩漬けの金融資産を抱え、広げすぎた外国投資からの撤退するタイミングを見計らっていた日本の銀行、信託をはじめとする金融機関だった。
そんな激しい金融業界の構造変化、資金の流れの変化の流れに翻弄され、3年を待たずして次の流れの中へ身を投じることになった。外資系特有の内からの圧力と、外からの圧力と、絶妙なタイミングだった。
日本がバブルにうかれ、それがはじけたことに気がつかぬ間に、民主化と経済の拡大が進んだ東アジアと、東西冷戦の終焉により旺盛な復興改革需要に湧いた東ヨーロッパ。世界の資金の大きな流れは相当程度に変化していた。しかしその急激で大きな変化によるひずみは、88年8月のロシア通貨危機、92年9月、93年7月の二度の欧州通貨危機、94年12月のメキシコ通貨危機へと繋がっていった。世界ではこれらのひずみをその管理下で望む方向での解決を図ろうと、アメリカはその影響力を発揮すべく、第三世界に牛耳られていた国連とは距離を置くGATTの延長線として95年に発足したWTO(世界貿易機構)においてその影響力を駆使し、自国有利のルールに基づく国際貿易自由化を加速しようとしていた。しかし、ミレニアムを迎えようとする99年のシアトル閣僚会議は、時の流れを止めて、変わらない夢を求める者たちによって予定されていた成果を得ることが出来ず、一旦この流れは収まったかに見えた。
80年代に蒔かれた変化の種は90年代に世界を大きく動かして行ったと同時に、ぼくの人生を大きく変えていくことになった。バブルのはじけた後の日本の金融経済の構造変化や世界の資金の流れの変化も知らず、個人的な興味から金融法人営業部に自ら異動したぼくを待っていたのは、塩漬けの金融資産を抱え、広げすぎた外国投資からの撤退するタイミングを見計らっていた日本の銀行、信託をはじめとする金融機関だった。
そんな激しい金融業界の構造変化、資金の流れの変化の流れに翻弄され、3年を待たずして次の流れの中へ身を投じることになった。外資系特有の内からの圧力と、外からの圧力と、絶妙なタイミングだった。
1982 - 1990 日米円ドル委員会からの金融市場開放の日々 - プラザ合意とウルグアイ・ラウンドからバブルへ
ぼくが外資系金融機関に就職したころから始まった日本の金融規制の緩和は1983年の日米円ドル委員会の提言を受けさらに加速、まさに国内の金融市場が国際競争にさらされようとしつつある局面にあった。
1985年9月22日に発表されたプラザ合意、翌86年9月に始まったGATTのウルグアイ・ラウンドはこれに拍車をかける。84年の外為実需原則の撤廃、85年の大口定期預金金利の自由化、87年のCP市場の創設、ワラントや転換社債の規制緩和。さらに86年の投資顧問業法の施行、特金やファントラと言った金銭信託による運用商品の普及。金融市場の開放を受け、急激に拡大した日本企業の資金の調達とハイリスクな投資運用は、膨大な借金と不良資産を残し、同時に金融機関は膨大な不良債権を残した。
82年に入社して2年間の財務部で銀行ビジネスの構造を学んだぼくは、まさに実需原則の撤廃された外為市場の業務の現場を経て、さらに外資系金融に解放されたばかりの信託銀行設立に駆り出されいった。これは83年11月の日米円ドル委員会の発表した4つの金融自由化の目玉の一つであったのだが、そこでは有り余る資金を初めて投資運用の世界に投じようとする企業の、政策投資以外の経験のない金融機関の羽目を外した無茶な投資がまかり通っていた。そんな中で地道に始まったのが、外資系信託銀行による海外を運用拠点とする国際分散投資。当時はまだ限られた機関投資家しか海外投資の経験は無く、まさに外資系の金融機関が日本の一般企業の資金運用や年金の運用市場に初めてもたらしたものだった。また、1987年6月9日に取引が始まった日本初の株式先物取引の株先50、続く88年9月3日の日経225先物の取引や89年6月の日経平均オプション取引も運用市場をさらに拡大させるものだった。
84年に1万円を超えた日経平均は、87年に2万円、88年には3万円を超え、89年の12月29日には史上最高値の38,915円を記録した。さらに都心部を中心とした不動産価格はそれ以上の上昇を示していた。
1986年に営業を開始したその外資系信託の受託資産は倍増に次ぐ倍増を重ね、90年暮れには一兆円を超える資産を運用していた。ぼくは自分一人で設計、コーディング、運営していた管理システムが2年を待たずして破綻するのを予測し、外人のプログラマーにシステムのリライトを依頼して、その運営を任せていたが、そのころにはそれさえ限界を迎えようとしていた。
会社はそんな僕にボーナスの代わりにご褒美として2か月の英国でのInternational Trainingに参加させた。昭和天皇の崩御の数カ月前の入退院を繰り返していた1988年の暮れのこと。帰国した僕を待っていたのはパンクしかけているシステムのリプレース・プロジェクト。そしてぼくは当時のアジア太平洋地区のシステム開発拠点だった香港で1990年から2年間、システム開発のプロジェクトチームと一緒に過ごすことになった。
バブル景気が永遠に続くと信じられていた1990年の春。20年前のこと。
1985年9月22日に発表されたプラザ合意、翌86年9月に始まったGATTのウルグアイ・ラウンドはこれに拍車をかける。84年の外為実需原則の撤廃、85年の大口定期預金金利の自由化、87年のCP市場の創設、ワラントや転換社債の規制緩和。さらに86年の投資顧問業法の施行、特金やファントラと言った金銭信託による運用商品の普及。金融市場の開放を受け、急激に拡大した日本企業の資金の調達とハイリスクな投資運用は、膨大な借金と不良資産を残し、同時に金融機関は膨大な不良債権を残した。
82年に入社して2年間の財務部で銀行ビジネスの構造を学んだぼくは、まさに実需原則の撤廃された外為市場の業務の現場を経て、さらに外資系金融に解放されたばかりの信託銀行設立に駆り出されいった。これは83年11月の日米円ドル委員会の発表した4つの金融自由化の目玉の一つであったのだが、そこでは有り余る資金を初めて投資運用の世界に投じようとする企業の、政策投資以外の経験のない金融機関の羽目を外した無茶な投資がまかり通っていた。そんな中で地道に始まったのが、外資系信託銀行による海外を運用拠点とする国際分散投資。当時はまだ限られた機関投資家しか海外投資の経験は無く、まさに外資系の金融機関が日本の一般企業の資金運用や年金の運用市場に初めてもたらしたものだった。また、1987年6月9日に取引が始まった日本初の株式先物取引の株先50、続く88年9月3日の日経225先物の取引や89年6月の日経平均オプション取引も運用市場をさらに拡大させるものだった。
84年に1万円を超えた日経平均は、87年に2万円、88年には3万円を超え、89年の12月29日には史上最高値の38,915円を記録した。さらに都心部を中心とした不動産価格はそれ以上の上昇を示していた。
1986年に営業を開始したその外資系信託の受託資産は倍増に次ぐ倍増を重ね、90年暮れには一兆円を超える資産を運用していた。ぼくは自分一人で設計、コーディング、運営していた管理システムが2年を待たずして破綻するのを予測し、外人のプログラマーにシステムのリライトを依頼して、その運営を任せていたが、そのころにはそれさえ限界を迎えようとしていた。
会社はそんな僕にボーナスの代わりにご褒美として2か月の英国でのInternational Trainingに参加させた。昭和天皇の崩御の数カ月前の入退院を繰り返していた1988年の暮れのこと。帰国した僕を待っていたのはパンクしかけているシステムのリプレース・プロジェクト。そしてぼくは当時のアジア太平洋地区のシステム開発拠点だった香港で1990年から2年間、システム開発のプロジェクトチームと一緒に過ごすことになった。
バブル景気が永遠に続くと信じられていた1990年の春。20年前のこと。
1970 - 1982 人類の進歩と調和 - 大阪万博のころから日米円ドル委員会のころ
1970年3月、小学校5年生になる春休みに開幕した大阪万博は、人類の進歩と調和をテーマに、アメリカがアポロ宇宙船で採取してきた月の石を展示したり、当時のソ連館に展示されていたソユーズ宇宙船。また、今では当たり前になったけれど、会場内を移動できる動く歩道や電気自動車、モノレール、奇抜なパビリオン、50年後の日本をテーマにした三菱未来館、当時の電電公社のテレビ電話やなどもぼくの好奇心をすこぶるあおった。
大阪の北部に住んでいたぼくは、比較的距離が近いのもあって、かなり頻繁に万博会場へ足を運んだ。母親に連れられて兄と3人で、親父の運転するスーパーカブの後ろに乗せられて、禁止されていたけど土曜の午後に友人と2人でと、密かに全館制覇を目指して通っていた。
光化学スモッグと、なぜか男が立てこもっていた太陽の塔。人類の辛抱と長蛇、と揶揄されながらも日本のちょっと胡散臭い、そして輝かしいだろう未来の、むっとする熱気が漂っていた。また、初めて外国人をまじかに見た驚き。サイン帳を持ち歩いて外国人にサインをねだるのが流行りだった。あのサイン帳、どこに行ったんだろうか。
ちょっと胡散臭かったけど、確かに輝かしい未来が僕たちに約束されていた1970年の春。40年前のこと。
万博から10年、怒涛のような70年代が過ぎて行った。ニクソンショックからスミソニアン合意を経ての変動相場制への移行とそれに続いて起きた73年、79年の二度に渡るオイルショック。佐藤長期政権のあとの田中角栄内閣と、その後続いた黒幕政治による混迷。そんな混迷する社会の中で生まれたパーソナルコンピューターや爆発的なブームを呼んだテレビゲーム。ぼくはまじめでおとなしい中学生から、受験勉強はそこそこに水泳に明け暮れた高校生を経て、何とか第一志望で入った大学で、だらしのない生活を日々過ごしている大学生になっていた。
度重なるオイルショックからの回復と列島改造プロジェクト、育ちつつあった電子関連産業が日本の産業界の風景を変えようとしていた1980年の春。30年前のこと。
第二次オイルショックの後の不況から日本の経済が回復しつつあるころ、就職活動をしていた。内外の国際金融情勢からか、すでにバブル期の前兆が現れていたのか、金融機関は積極的に採用を進めており、天邪鬼のぼくは当時はまだだれも見向きもしない、あるいは敬遠していた某アメリカ系の商業銀行の東京支店に就職を決めた。
81年には新銀行法、83年4月の銀行による国債の窓販、同11月には日米円ドル委員会が大口預金金利の自由化や外国為替取引の実需原則の撤廃、円建BA市場の開設や外銀による信託業務参入などを提言し、日本の金融市場はその開放を迫られていた。そんな流れの中での外資系金融人生のスタートだった。1982年春のことである。
大阪の北部に住んでいたぼくは、比較的距離が近いのもあって、かなり頻繁に万博会場へ足を運んだ。母親に連れられて兄と3人で、親父の運転するスーパーカブの後ろに乗せられて、禁止されていたけど土曜の午後に友人と2人でと、密かに全館制覇を目指して通っていた。
光化学スモッグと、なぜか男が立てこもっていた太陽の塔。人類の辛抱と長蛇、と揶揄されながらも日本のちょっと胡散臭い、そして輝かしいだろう未来の、むっとする熱気が漂っていた。また、初めて外国人をまじかに見た驚き。サイン帳を持ち歩いて外国人にサインをねだるのが流行りだった。あのサイン帳、どこに行ったんだろうか。
ちょっと胡散臭かったけど、確かに輝かしい未来が僕たちに約束されていた1970年の春。40年前のこと。
万博から10年、怒涛のような70年代が過ぎて行った。ニクソンショックからスミソニアン合意を経ての変動相場制への移行とそれに続いて起きた73年、79年の二度に渡るオイルショック。佐藤長期政権のあとの田中角栄内閣と、その後続いた黒幕政治による混迷。そんな混迷する社会の中で生まれたパーソナルコンピューターや爆発的なブームを呼んだテレビゲーム。ぼくはまじめでおとなしい中学生から、受験勉強はそこそこに水泳に明け暮れた高校生を経て、何とか第一志望で入った大学で、だらしのない生活を日々過ごしている大学生になっていた。
度重なるオイルショックからの回復と列島改造プロジェクト、育ちつつあった電子関連産業が日本の産業界の風景を変えようとしていた1980年の春。30年前のこと。
第二次オイルショックの後の不況から日本の経済が回復しつつあるころ、就職活動をしていた。内外の国際金融情勢からか、すでにバブル期の前兆が現れていたのか、金融機関は積極的に採用を進めており、天邪鬼のぼくは当時はまだだれも見向きもしない、あるいは敬遠していた某アメリカ系の商業銀行の東京支店に就職を決めた。
81年には新銀行法、83年4月の銀行による国債の窓販、同11月には日米円ドル委員会が大口預金金利の自由化や外国為替取引の実需原則の撤廃、円建BA市場の開設や外銀による信託業務参入などを提言し、日本の金融市場はその開放を迫られていた。そんな流れの中での外資系金融人生のスタートだった。1982年春のことである。
2010年4月3日土曜日
インターネットのこと 1995年2月
そもそもの始まりは親父の持ち帰ってきた卓上電子計算機なる物を見た時から始まったのかもしれない。
1970年代初頭には電子計算機は、卓上から液晶表示のポケットサイズへ劇的な進化を遂げた時期だった。僕が小学校から中学、高校へ通うころにはカード型が当たり前になっていた。そろばん塾に通って算数大好き少年だった僕は電卓の進化に興味津々だった。そしてまだ見ぬ、いわゆるコンピューターと言うものにも夢を膨らませていた。
1978年(昭和53年)に大学の授業で初めてコンピュータに出会った。大学の計算機室と呼ばれる空調の効いた部屋で、そいつは時々、かちゃかちゃ、じっじっ、だっだっだっだっ、と動いていた。その頃のテレビドラマやニュースで「コンピューター」に関する映像として典型的な大きなリールの記憶テープ、プログラムやデータを読み込むカードリーダと大きなドラム式のプリンターがストックフォームと呼ばれる専用紙に打ち出されるアウトプットが全て。
1982年、米系銀行に就職して初めて購入したPCはソードコンピューターのホビー用PCのM5。その銀行がソードコンピューターの表計算ソフトPIPSをメインに採用していた為に新入行員研修で受けたPIPS研修時に購入。テレビアンテナに繋いでテレビ画面をモニターに。
新入社員研修が終わって財務部に配属され、そこでアップルIIeに出会った。他部署は全てソードコンピューターを使っていたにも拘らず、そこではアップルの表計算ソフトVisiCalcを使っていたのだ。そいつは小さな箱のくせにペラペラのディスクにデータやプログラムをため込むことが出来たし、小さなプリンターに繋げば文字やグラフィックをアウトプットすることもできた。
その頃から1985年までアップルIIeのBasicを駆使して会社の顧客やセグメント別の予算管理システムの設計、コーディング、導入、運営を自分で勝手に進めた。単に電卓で集計、紙で報告書にまとめるのが面倒なだけだったので、使える道具で自動化させたかっただけだったけれど、会社は評価して表彰もされたりした。
1983年にNECから発売されたハンドヘルドコンピュータのPC8201を買った。たった4行の液晶表示のついた持ち運び可能なコンピューターだった。中古のテレフォンカプラーを購入して銀行の電子メールを自宅で読み書きすることも可能だった。
1985年に始まったアスキーネットの実験運転のモニターに応募してIDを貰い、初めてのチャットを経験。その実験が終了した87年に、ようやくその頃営業を開始したニフティサーブに参加した。
その年の秋から会社では信託銀行を立ち上げて資産運用ビジネスを始めようとしていた。経理業務と資金証券・為替業務の両方の経験を持つ僕が業務の立ち上げを担当することになった。会社は提携先の邦銀信託への2か月の研修をアレンジしてくれたが、システム開発や業務手続きの構築などの準備は全て僕に任された。信託銀行の帳簿システム、信託財産の記帳と証券取引の管理システムを一からIBMPCのDOSBASICで半年かけて作り上げた。またもやシステムの設計とコーディング、テストと導入、運営管理のすべてを一人でやっていた。
さすがに2年後には手製のシステムの破たんするのが目に見えてきたので会社が採用したプログラマーが当時の最先端のデータベースだったDbaseIIを使って僕のシステムのすべてを書き直し、運用管理を移すことになる。また同時にやはり発表されたばかりのオラクルを採用したホストコンピュータベースのシステムの開発を行うことになった。その為1990年から2年半、香港のシステム開発センターに駐在することとなった。
1993年に東京に戻って、前年に発売されたマッキントッシュLCIIとモデムを購入。アップル初のカラーディスプレイ標準装備の格安カラーマッキントッシュの二代目として、価格的に手の届くギリギリのものだった。子供が生まれる前にいろんなものを整理しておこうとして思い切って買ったのだった。
インターネットの存在を知ったのはそのもう少し前、ニフティのメールをインターネットメールに接続して、他のパソコン通信のメールを使っている友人や、インターネットメールの利用者とメールのやり取りを始めた頃だった。このころからニフティサーブ経由でCompuServeのIDを取得してインターネットへ接続。まだまだウェブサービスの始まる前のテキストベースでの接続。GOPHERやTELNET、FTP、MAILなどのコマンドを駆使しての利用だった。
1994年(平成7年)に日本初のISP(インターネットサービスプロバイダー)のIIJ(インターネット・イニシアティブ・ジャパン)を利用して自分のPCをダイヤルアップでインターネットに接続した。1分間50円と言う接続料金の高さに耐えられず、翌年から始まった格安ISPのベッコウアメインターネットに変更。そう言えばインターネットマガジンも創刊号からの愛読者だった。
<続く>
1970年代初頭には電子計算機は、卓上から液晶表示のポケットサイズへ劇的な進化を遂げた時期だった。僕が小学校から中学、高校へ通うころにはカード型が当たり前になっていた。そろばん塾に通って算数大好き少年だった僕は電卓の進化に興味津々だった。そしてまだ見ぬ、いわゆるコンピューターと言うものにも夢を膨らませていた。
1978年(昭和53年)に大学の授業で初めてコンピュータに出会った。大学の計算機室と呼ばれる空調の効いた部屋で、そいつは時々、かちゃかちゃ、じっじっ、だっだっだっだっ、と動いていた。その頃のテレビドラマやニュースで「コンピューター」に関する映像として典型的な大きなリールの記憶テープ、プログラムやデータを読み込むカードリーダと大きなドラム式のプリンターがストックフォームと呼ばれる専用紙に打ち出されるアウトプットが全て。
1982年、米系銀行に就職して初めて購入したPCはソードコンピューターのホビー用PCのM5。その銀行がソードコンピューターの表計算ソフトPIPSをメインに採用していた為に新入行員研修で受けたPIPS研修時に購入。テレビアンテナに繋いでテレビ画面をモニターに。
新入社員研修が終わって財務部に配属され、そこでアップルIIeに出会った。他部署は全てソードコンピューターを使っていたにも拘らず、そこではアップルの表計算ソフトVisiCalcを使っていたのだ。そいつは小さな箱のくせにペラペラのディスクにデータやプログラムをため込むことが出来たし、小さなプリンターに繋げば文字やグラフィックをアウトプットすることもできた。
その頃から1985年までアップルIIeのBasicを駆使して会社の顧客やセグメント別の予算管理システムの設計、コーディング、導入、運営を自分で勝手に進めた。単に電卓で集計、紙で報告書にまとめるのが面倒なだけだったので、使える道具で自動化させたかっただけだったけれど、会社は評価して表彰もされたりした。
1983年にNECから発売されたハンドヘルドコンピュータのPC8201を買った。たった4行の液晶表示のついた持ち運び可能なコンピューターだった。中古のテレフォンカプラーを購入して銀行の電子メールを自宅で読み書きすることも可能だった。
1985年に始まったアスキーネットの実験運転のモニターに応募してIDを貰い、初めてのチャットを経験。その実験が終了した87年に、ようやくその頃営業を開始したニフティサーブに参加した。
その年の秋から会社では信託銀行を立ち上げて資産運用ビジネスを始めようとしていた。経理業務と資金証券・為替業務の両方の経験を持つ僕が業務の立ち上げを担当することになった。会社は提携先の邦銀信託への2か月の研修をアレンジしてくれたが、システム開発や業務手続きの構築などの準備は全て僕に任された。信託銀行の帳簿システム、信託財産の記帳と証券取引の管理システムを一からIBMPCのDOSBASICで半年かけて作り上げた。またもやシステムの設計とコーディング、テストと導入、運営管理のすべてを一人でやっていた。
さすがに2年後には手製のシステムの破たんするのが目に見えてきたので会社が採用したプログラマーが当時の最先端のデータベースだったDbaseIIを使って僕のシステムのすべてを書き直し、運用管理を移すことになる。また同時にやはり発表されたばかりのオラクルを採用したホストコンピュータベースのシステムの開発を行うことになった。その為1990年から2年半、香港のシステム開発センターに駐在することとなった。
1993年に東京に戻って、前年に発売されたマッキントッシュLCIIとモデムを購入。アップル初のカラーディスプレイ標準装備の格安カラーマッキントッシュの二代目として、価格的に手の届くギリギリのものだった。子供が生まれる前にいろんなものを整理しておこうとして思い切って買ったのだった。
インターネットの存在を知ったのはそのもう少し前、ニフティのメールをインターネットメールに接続して、他のパソコン通信のメールを使っている友人や、インターネットメールの利用者とメールのやり取りを始めた頃だった。このころからニフティサーブ経由でCompuServeのIDを取得してインターネットへ接続。まだまだウェブサービスの始まる前のテキストベースでの接続。GOPHERやTELNET、FTP、MAILなどのコマンドを駆使しての利用だった。
1994年(平成7年)に日本初のISP(インターネットサービスプロバイダー)のIIJ(インターネット・イニシアティブ・ジャパン)を利用して自分のPCをダイヤルアップでインターネットに接続した。1分間50円と言う接続料金の高さに耐えられず、翌年から始まった格安ISPのベッコウアメインターネットに変更。そう言えばインターネットマガジンも創刊号からの愛読者だった。
<続く>
2010 - 最近のこと 平成22年春
いろんな人との係わりが、途切れては繋がり、離れては重なる。
いつの年も、「春」とはそういう季節なのだろうけれど、今年はいつもと相当違っている。
人との係わりは、やはり仕事関係が一番多く、特に今勤めている会社関係、今まで働いたことのある職場で同僚だった者たち。もちろん家族や親兄弟、学生時代の友人、それ以外の様々なご縁で知り合った人たち。
そういった人たちとの係わりは、消えないものだと思っている。たった一度出会っただけでも、毎日毎日顔を合わせていても、何れにしても、出会ったことはお互いの人生の中で消すことはできないもの。それが良い出会いであっても、最悪な出会いであっても。
昨年の暮れに、勤務先の会社、これは世界的な金融グループに属していたのだが、他社に買収されて、日本でも二つの会社が統合されることになった。そして、統合された。
今までも散々会社の統合や消滅で会社を辞めたり、辞めさせられたり、自分の都合で会社を変わったことは何度かあったが、自分が在籍したまま会社が統合するのは初めてだ。そんなコンテクストの中での、今年の春。
大量の出会いと、少なからずの別れが交錯してきた、ここ数か月。
去る者は日日に疎しかもしれないが、大量の出会いを消化するのには、相当な時間がかかりそう。それでも思うのは、やっぱり、出会ったことは取り消せない。これから一生付き合っていくことになる、一人一人との出会いを大切にしていきたいと思う。
いつの年も、「春」とはそういう季節なのだろうけれど、今年はいつもと相当違っている。
人との係わりは、やはり仕事関係が一番多く、特に今勤めている会社関係、今まで働いたことのある職場で同僚だった者たち。もちろん家族や親兄弟、学生時代の友人、それ以外の様々なご縁で知り合った人たち。
そういった人たちとの係わりは、消えないものだと思っている。たった一度出会っただけでも、毎日毎日顔を合わせていても、何れにしても、出会ったことはお互いの人生の中で消すことはできないもの。それが良い出会いであっても、最悪な出会いであっても。
昨年の暮れに、勤務先の会社、これは世界的な金融グループに属していたのだが、他社に買収されて、日本でも二つの会社が統合されることになった。そして、統合された。
今までも散々会社の統合や消滅で会社を辞めたり、辞めさせられたり、自分の都合で会社を変わったことは何度かあったが、自分が在籍したまま会社が統合するのは初めてだ。そんなコンテクストの中での、今年の春。
大量の出会いと、少なからずの別れが交錯してきた、ここ数か月。
去る者は日日に疎しかもしれないが、大量の出会いを消化するのには、相当な時間がかかりそう。それでも思うのは、やっぱり、出会ったことは取り消せない。これから一生付き合っていくことになる、一人一人との出会いを大切にしていきたいと思う。
まず始めること、それが大切
ブログでも、ツイッターでも良いと思った。
今までの様々な思いを、出来れば、出来るだけ、その時間、その場所を特定して思いだした端から、記憶の断片として書き溜めて、切りの良いところでまとめていく、そんな作業を繰り返していきたいと思う。
自分の為に。そして、係わってきた人たちの為に。
ジロー0623
今までの様々な思いを、出来れば、出来るだけ、その時間、その場所を特定して思いだした端から、記憶の断片として書き溜めて、切りの良いところでまとめていく、そんな作業を繰り返していきたいと思う。
自分の為に。そして、係わってきた人たちの為に。
ジロー0623
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