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2014年2月2日日曜日

君は夢を持っていたか - 夢の途中

今年の受験生で、まさに入試の真っ最中である娘に不意に尋ねられた。「お父さんて、夢があったの?」と。

「そりゃあったさ!」反射的に答えた後で、はて、何だったかと思いあぐねていた。娘は当然ながら、「それ、何だったの?」と聞いてきたので、「そんなもん、とっくに忘れた。」と、とっさに答えて会話は打ち切られた。

実は小さな夢があった。後になって風呂に入りながら過去を振り返ってみたら、大学の頃に就職活動をしていた頃、ぼんやりと心の中に描いていた将来の自分の姿があった。世界を股にかけるビジネスマン。今から思えば、具体性のないぼんやりした話で、どんな仕事をやりたいとか、自分の能力とか、やりたいと思っていた事となどとは全く関連性が無かった。単に、格好の良い憧れだけのイメージだった。

関西の纏わりつくようなベタッとした空気を逃れるようにして入った東京の大学だったが、日本の各地方から学生が集まる大学だったにも拘らず、卒業して就職する頃には日本の企業戦士の士官学校よろしく有名な大企業に就職することを唯一の共通の価値観として持ち合わせるような処だった。

多種多様の同級生と過ごした学生時代にも拘らず、その後進む道が多種多様な企業とは言え、誰も具体的な未来は見えてもおらず、新入社員に近いような先輩社員の話だけを頼りに、日本の一部上場の大会社に殆どの学生たちが呑み込まれていた。どこの会社の先輩の話を聞いても具体的にその会社の何が良いのか、面白いのか、トンと見当がつかなかった。今から思えば、自分でそれを見つけることを放棄して行くことが企業戦士になると言う事だったのかもしれない。


どの会社に行っても、先のことが判らないのであれば、日本の企業戦士でなくていられそうな海外での仕事にあこがれた。英語や第二外国語も、貿易の勉強も何も、何の準備もしていないくせに出来るだけ海外で仕事の出来るところが良い、などと考えていた。日本の企業戦士、サラリーマンと言う枠に嵌められたくなかっただけなのかもしれない。気が付いたら、世界を股にかけて仕事をするビジネスマンというイメージになっていたのかもしれない。

正直なところ、あの頃の日本は今とは違って、自分のやりたい事や能力を発揮できる仕事とか、それほど選択肢はなかったように思う。世代の違いや生活や教育環境の違いでそれなりの差はあるものの、第二次大戦の敗戦からの復興、高度成長、オイルショックを乗り切った日本経済が絶頂期へと駆け上る助走から、離陸、高度安定飛行への急上昇中の頃だ。

黙って会社の言う通りやっていれば間違いはない。大きくて有名な会社の方が受けるメリットは大きい、小さい会社や新しい会社は不安定で労働条件も厳しい。そんな価値観とも言えないような世間の空気があちこちで子供達や若者、サラリーマン自身さえをも覆っていた。結果的にはそのまま80年代後半のバブルに突っ走り、日本の社会はその後の失われた20年と言われる乱気流の時代を迎えることになる。大きくて有名な会社でも、先のことは分からない。新しくて小さな会社でも、気が付いたら世界で有名な大企業になっているところもある。

今となっては昔である。


今と違ってね、あの頃はそんな具体的な夢ややりたい事なんで、誰も言えなかったし、考えることを避けていたんだよ、と。子供たちには言い訳に聞こえるかもしれないけれど、そうだったんだよと思う。


自分の夢の話に戻ろう。

世界を股にかけたビジネスマンになる夢は、気が付いたら叶っていた。36歳の頃には外資系企業の日本法人の部長、40歳ではやはり外資系企業の日本法人の取締役になっていた。香港でのシステム開発チームに加わったし、イギリスでの2か月の研修にも参加した。東京の業務フローの見直しの為ニューヨークのグループ会社へ出張したり、香港やシンガポールでのグループのアジア会議へ出席してアジア戦略を話し合ったり、東京の状況を報告をしたりもした。パスポートは用紙を追加しないと足りなくなっていた。

しかし、夢は叶ったところからが本当の苦しみが始まる。いや、始まったように思う。現実はそんなに簡単でもないし、甘くもない。と言うよりも、そんなものは単に自分の成りたかった将来のイメージに過ぎなくて、近付けば近付くほどそれはより具体的で、現実的で、超えるべき壁や対処すべき問題がより明確になってくる。

世界を股にかけていても、その組織や人を動かせなくては意味がない。相手の言葉が解るだけでは誰も動かせず、納得もしてもらえず、理解さえしてもらえない。相手の言葉で分かるよう、納得できるよう、動いてもらえるように、行動と言葉を尽くして相手をしないと何も変えられない。

その為に出来る事をすべて尽くして、備える。40歳を過ぎてからの方がその夢への思いは強くなった気がする。マネジメントの書を読み、アメリカの大学院をネットで卒業し、職種を変え、会社も幾つか変わることになった。

未だ、夢の途中。

2012年4月8日日曜日

AIJと年金制度と個人投資と投資信託と証券会社の関係

2012年2月の証券取引等監視委員会による検査と行政処分勧告により、AIJ投資顧問が虚偽の運用報告を行ってきた事が発覚し、実際には1800億円近い年金の運用資産が消失している可能性が高い事が判明した。

[日本の年金制度の問題]
AIJ投資顧問による資産運用の失敗、虚偽の報告、及び詐欺的な営業を行って、厚生年金基金の多くが騙された結果、これらの年金基金に加入している企業の従業員、退職者が将来予定していた年金を受け取れなくなる可能性が極端に高くなる事態を引き起こした。連鎖的にはこれらの企業の連鎖倒産や厚生年金の資金からの補てん等が起きる可能性があり、その影響は相当程度広くて大きいであろうと言うこと。

AIJ投資顧問の不祥事が引き金を引いた年金に係る諸問題は、幾つかの日本の社会構造の重大な不具合が複雑に、また密接に絡んでいる。

[投資顧問業者による詐欺事件と金融制度]
まずはAIJ投資顧問の不祥事として、金融商品取引法、投資運用業者の登録制度と当局による監督、検査の対応の問題。登録審査は?監督や検査の状況は?投資顧問業に係る法制度は?適切だったか。
[厚生年金と日本の年金制度設計と監督制度]
次に騙された厚生年金基金の運用委託責任。全ての基金が騙されていたわけではない事から、委託者としての委託先選定手続きや審査基準の設定や実施、さらに委託状況のモニタリングやその結果の対応計画や実行プラン策定などの委託者としての義務。


それぞれ、投資顧問の課題、年金基金の課題、とすると、それぞれが幾つかの構造上の複合的な不具合がある。厚生年金制度の不具合、金融商品取引業の登録制度の不具合。またこれらの不具合がどこから起きているか。広くは世界的な人口動態の変動による制度のきしみと政治の怠慢と民意の未成熟。

[政治の問題としての年金制度]
硬直した官僚制度と機能していない政党政治が、本来機能すべき国の行政の仕組みの適切な見直しを行えず、機能していない年金制度をそのまま温存し、厚生省又は社会保険庁の利権として天下り先としてしか機能していない。
1986年まで生命保険会社と信託銀行にしか認めていなかった年金資金の運用を、大蔵省の下に投資顧問業法を制定、投資顧問業者による運用を拡大し、90年には投資信託委託業者としての運用会社を含め、投資運用業界の確立、その後の金融庁設立と2007年の金融商品取引法の施行を集大成として金融庁による資産運用業界の掌握がなされている。




2012年1月2日月曜日

2012年 初春( 年に一度のブログ?)

怒涛のような1年だった。

気が付いたら1年が過ぎていた。今の外資系プライベートバンクへ転職して1年と2か月になるが、思い知ったのは業界の厳しさと難しさと市場の荒波、欧州通貨危機や米国債格下げ。さらには昨年3月の東日本大震災と福島原発事故。迷走する民主党政権。

つまりは、どれほど社会が混迷を極めている状況かを改めて思い知らされたと言う事。先の事は誰にもわからない。この日本の社会をリードしているとされる人々が責任を取ることを期待されておらず、かといって誰もこの状況を打開策を提示できずにいるということ。そしてそんな状況は実は日本に留まらず世界的な情勢になりつつあると思われる事。世界中の政治が混迷し迷走しつつある。

唯一の解決方法は、正攻法としてより一層の相互理解と共有できる価値観や国際社会?世界社会的な目標設定を行うこと。それを実行しない限り、この混迷は続くのではないか。この状況の原因であり、解決策を実行可能にするのは、ネットとコンピュータとそれを繋いで世界中の人間の知的作業を加速しつ続けるITとソフト産業、そしてそれを取り込み、利用し、その進化を加速させる企業や個人の営みだと思う。

自分自身で環境を変えておきながら、一番変れないのが、変化に対応する為に時間を必要とするのが人であり、人間の社会であり、今はその変化への対応の為の調整期なのではないか。加速する情報の量と伝達速度、限りなく増えてゆく選択肢、蓄積してゆく情報と判断の記憶、忘れられない過去と蘇る忘れ去られた過去。人間社会が受容を強要される多様性と、失われる一貫性や包括性。無数の収束点が拡散していくヴァーチャルな世界。強まり、そして拡散し、収束する人と人の絆。


私が働いてきた金融業界に限らず、他の様々な産業においても、個人の暮らしにおいても、人と人との係わり方とその蓄積の仕方や広がり方が根本的に変質しつつある。人と人との関係が、その密度と速度と摩擦が加速度的に増してきて、対応できずに持て余している。また、その対応や調整の方法や程度が個人によって大きく異なり、特に世代間のギャップは大きいのだが、そのギャップについての社会的認識が世代間で共有されていない。新しい世代は気が付いたらスマホのアプリで様々な情報や人間に自由にアクセスしてそれをネット上で蓄積して、なおかつ流す事が出来る世代で、古い世代は気が付いた時にあったのが白黒テレビと固定のダイヤル黒電話だった世代。

金融の世界はそれ以前から類似の変化を起こしている。溢れるマネーサプライと投資銀行が金融工学と称して指南し運用する、デリバティブによりレバレッジが掛けられ無制限に増幅して加速する津波のような世界中の投資マネー。これもそうだ、密度と摩擦と速度が加速度的に増していて、世界中の金融当局も、個人を含む投資家も対応しかねている。


とても難しい事かもしれないが、今一度、今起きている事をその流れと波の中から取り出して、その流れと波の行方を見据え、今の立ち位置と自分自身の持つ力とを見直し、少なくとも押し流されぬよう、溺れぬよう、全力を尽くすだけ。

いやはやとんでもない一年が、いや、新しい時代が始まる。

2011年1月15日土曜日

2011年 初春

今年の年賀状は例年といささか勝手が違って、ネット上での挨拶が目立った。

昨年退職した大手投資顧問会社は、一昨年の暮れに買収により経営や営業方針、運営形態が大きく変わってしまい、私を含む多くの仲間が会社を去っていた。昨年はその仲間や、それ以前に勤めていた会社の仲間も含め、フェースブックで繋がった人間関係が飛躍的に伸びた年だった。おかげで新年早々からフェースブックや電子メール、ツイッターなどで新年のあいさつや近況の報告をすることとがめっきり増えた。年賀状は年賀状で、相変わらずある程度決まったメンバーとやり取りをしているのだが...

昨年11月に移ったのはプラベーとバンクを主要業務とする外資系の信託銀行。25年前の当初の外銀信託のライセンスを残す最後のものかもしれない。25年を経てこのライセンスがこのような使われ方をするとは、当時の誰が想像しただろうか。時代は個人金融資産の投資への誘導の時代である。大手中小、外資邦銀、銀証生損保がこぞって押し寄せて来ている時代であるが、果たしてどこが仕留めるのだろうか。5年前のシティバンクのプライベートバンク事件の後を誰も継ぐことはできず、四散したバンカーとその顧客を、誰も長くは引きとめられずにいるように見受けられる。

本当は、何が求められているかを真剣に、まじめに、着実に分析、検証していけば出せる答えを、誰も導きだそうともせずに安直に目の前の浮利を追いかけて、どこにも辿りつけないでいるように見えるのは、私だけだろうか。

2010年10月21日木曜日

「グローバル金融攻防三十年」 太田康夫著

1982年に大学を卒業。好奇心だけで当時は珍しいアメリカの銀行の東京支店に就職。以来28年間、外資系金融、投資運用会社で日本の外資と言う小さな窓を通してグローバル金融の世界を見てきた自分にとって、まさにこの著者の目を通しての30年間のグローバル金融史は、金融業界の歴史を俯瞰しながら自分の足跡を辿るものだった。

80年代初頭の外資系の銀行は、厳しい規制により業務自身も縛られてはいたが、逆に競争にさらされることも無く、高い収益を確保しながら、モラルも高く、地味な仕事を着実のこなしていくインフラとカルチャーを有していた。
しかし、私が採用された1982年は、米国政府による日本金融市場開放を先取りした米銀が大量採用を始めた年で、それまでの約5倍の100名もの大量採用だった。まさに、その後の日米円ドル委員会による開放圧力、その後計測的に進む規制緩和により、世界の金融業界が変貌し始めよううとして採用した、規制緩和による業務拡大の為の新兵だったのだと思う。

年金などの資産運用業務参入を目指した86年の外資系信託銀行の設立とバブル景気や邦銀の海外進出、外資系証券の大量進出、90年代のバブル崩壊と国際業務の縮小、97年のシティコープとトラベラーズ合併に象徴される日米欧州での金融コングロマリット化、メガバンク化、2000年代に入ってからの、欧州通貨統合やITバブル、2001年の9・11、そしてサブプライムからリーマンショックへ。反動としてのボルカー規制の導入やBISのバーゼルⅢ、IFRS。

日本の資産運用業界で言えば、80年代後半の法人による資金運用から、90年代の年金の自由化や投信や投資顧問業務の法整備と規制緩和、公的年金主導の資産運用業の進展と拡大。業界や国境の壁を越えた大量の参入。2000年代後半になって整備されてきた包括的な金融法制、指導監督・検査体制。

世界規模での金融に係る規制緩和と自由化、国際化が、金融工学を発展させ、その市場の規模と地域的な広がり、商品の複雑化を加速した。それまで自らを律していた内部監査やリスク管理の態勢がこれに追い付くことは無く、後追いのまま潜在リスクが高まっていったように思う。

日本ではもともと金融機関は大蔵省の護送船団で保護されてきたため、自らの考えで商品を開発したりそのリスク管理の手法を開発できるはずも無く、大蔵省の判断で認めるものをいち早く察知し、これを他社より早く導入することを業界の競争原理としていたこと、また日本ではほとんどの先端的な金融商品は海外から持ち込まれたものだったため、頭の固い経営陣が自らその仕組みやリスクを理解する由もなく、競争上の理由あるいは収益確保の目的で導入するケースが多かったのではないか。

1998年の金融監督庁発足して、初めて日本でも国際的な枠組みでの競争を意識した規制当局が生まれ、プリンシプルベースの金融機関監督体制が徐々に整ってきたが、監督する方もされる方も、お互いに様子見をしながらの対応のため、非常に時間のかかるプロセスとなっている。

2010年10月9日土曜日

それから

アメリカで初めてのアフリカ系大統領のオバマ大統領が誕生し、日本では戦後初めての非自民の単独で衆院過半数を占める与党の民主党政権が誕生した。
これが新しい時代の到来なのか、混沌の末の試行錯誤なのかは解らない。今のところは。

世界と日本は交錯しながらその構造と仕組と成り立ちを変えようてしている。

なし崩し的に溶け合おうとして溶け合えない、混ざろうとして、混ざりきれない。それぞれはそれぞれとして、個別に存在感を示しながら、それを仕切ろうとしていた壁が、仕切りが低くなり、やがては全体が一つの器の中に共存する。

古い言葉でいえば弁証法か。一つになろうとして、ぶつかって、溶け合って、あるいは溶け合えなくて、また分裂していく。それぞれが全く別の新しいものとして。

2010年8月22日日曜日

2001 - 2009 あの頃には、もどれない - 続く変化の時代

2001年の夏。1999年から立ち上げた英国金融法人の日本の運用子会社をやむをえない事情で去った後、米系の老舗運用会社へ移籍。不運にも転職した2ヶ月後にその会社の身売りが発表され、翌年春にその会社は消滅することに。その間、911の米国多発テロが起きたが、既に予定していたニューヨーク本社の訪問を直後に敢行した。前年のITバブル崩壊、2001年の911テロ、2003年3月に始まったイラク戦争と世界の仕組みの再考を促すような事件が続く。2002年春の勤務先米系運用会社の売却にあたり、古巣の米銀系信託銀行へ職を得る。全てが振り出しに戻った。
日本の金融業界は、バブル経済の後始末を2001年4月の住友銀行とさくら銀行の合併、2005年10月の東京三菱によるUFJの救済合併など、行政主導の金融機関の再編により不良債権問題にもけりをつけようとしていた。金融庁主導の資産査定の厳格化や独立した金融検査の実施による経営の独立化が進んでいた。
同時に外資系金融機関にも同様のメスが入れられた。本国では米国のSOX法対応や厳しくなるBIS規制への対応を進めているくせに、日本の金融当局を見くびっていた外資系金融や外資系証券は検査対応に追われた。2004年のシティグループ等のスキャンダルや、次々と挙げられた類似の事象に、日本の金融業界は一気にコンプライアンスの時代に入っていった。そんな中で、2004年12月の改正信託業法の施行、2007年9月の金融商品取引法や新信託法の施行、関連諸法例の改正など。外資を含む金融機関や証券会社のビジネスをめぐる環境は大きく変わった。
世界中で、法令遵守にかかるリスクとコストは上昇し、またサブプライム問題を原因として起きた2008年9月のリーマンショックは業界の統合と淘汰を進めた。
2002年に戻った米系の信託は2004年秋に廃業を決め、2005年の夏に別の米系のコンサルティング業務を兼営するユニークな運用会社へ、さらに景気の盛り返していた2006年の夏には世界最大級の米国の資産運用会社の持つ米系信託へ移籍した。しかし世の中の流れは統合、淘汰へ向かっていた。信託は運用業務を資産運用会社へ移管したうえで売却され、移った運用会社は気が付いたら、別の世界最大級の独立系資産運用会社に買収されようとしていた。

2009年夏。