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2010年6月21日月曜日

1999 - 2001 ITバブルから911

世界はインターネットのインフラ投資、携帯電話の爆発的な普及に加えて、2000年対応、ミレニアム対応と、IT業界に関係する金融や不動産を含むバブル経済に沸いていた。

日本では投資信託法や証券取引法の改正による一種の投資バブルとITバブルが重なり合い、花形ファンドマネジャーや強大な外資の運用会社による進出、大型投信の設定に沸いていた。先のバブルから10年ほども経っていないというのに、市場の構造の不備もあり、IT関連企業を中心に再びバブル経済が広がって、そしてはじけた。そして、2001年の911の同時多発テロが世界の交通、物流に急ブレーキをかけた。日本ではメガバンクのさらなる再編が起き、金融機関の淘汰が進んだ。

しかし、しぼんだITバブルは格安の光通信インフラを世界中に遺産として残すことになった。インドや中国を中心とする新興国、BRICsと呼ばれる国々は、新しく、格安の通信インフラと先進国からの投資マネーを受け入れ欧米に代わる世界経済の牽引車となりつつあった。

2010年5月30日日曜日

1995 - 2000 改正投信法とITバブル

1998年に証券取引法とともに投資法が改正された。

それまで免許を必要としていた証券業は登録に、同様に免許が必要だった投信委託業は認可へその基準が緩和された。また登録金融機関として銀行、生損保が投信販売を開始。銀行系、生損保系、外資系の投信会社を相次いで設立され、営業を開始した。それまで証券会社にしか版図を持てなかった投信会社は、一気に銀行へ販売委託の営業攻勢をかけた。

系列の証券会社などに縛られない外資系の投信会社は、金融グループにあるものはそのグループの名をうたい文句に、外資独立系の投信会社(当時はまだ本邦の独立系は皆無だった)の大手は本国の仕組みを持ち込み、そうでないところも独自の運用スタイルで、大手金融グループ、地銀、地方の信金信組に至るまで全国行脚の投信販売もう開拓に走った。

時はITバブルが走り出した1998年12月。システム業界の2000年問題対応、携帯電話やインターネットの普及で、IT業界がその他の産業を巻き込んで大きな相場を作ろうとしていた。

80年代後半の資産バブル、90年代終わりのITバブル。一生に2度のバブルを経験した。恩恵を被ったことは無いけれど、人の愚かさとエネルギーの凄まじさを見せつけられた。社会のシステムや人の理性のどこかに歪みが生じると、すごいエネルギーが流れ込み、荒れ狂い、やがて社会全体と最も弱いところに大きな傷を残して一気に収束してしまう。

2010年5月22日土曜日

1995 - 2001 投信と投資顧問の時代

1995年、新卒で入った米系の金融グループは本国の不動産バブルでダメージを受けてコアビジネスへの回帰を目指していた。グループ内での資産運用ビジネスの地位は極端に低下した。アジアの出先の日本での信託を器にした、重たくて収益性の低いビジネスは停滞していた。
2月に移籍した先は欧州系の資産運用をコアのビジネスとする金融グループ。日本でも信託、投資顧問、投資信託の3つの会社を持ち、日本の業界での最先端を目指していた。特に外資系や独立系の運用会社に解放されたばかりの投資信託ビジネスは、フロンティアだった。新しい試みを実現しようとしたが、旧投信法の下、旧来の証券会社しか販売チャンネルとして与えられていない不自由さ、販売会社がリードする旧来のルールやしきたりに苦しんだ。信託銀行の立ち上げ以上に苦しい、人生二度目の大きなチャレンジだった。
そんな中でのさらなる金融の自由化が進んだ。投資顧問業との兼業が認可されるようになり、さらに1998年には投信法が大幅に改正され、銀行による窓販ルートの開拓、認可基準の緩和などがこの間に一気に進んだ。銀行による販売業務への進出、銀行系、生保系、その他独立系の投信会社の設立、参入。
2005年に移籍したのはその欧州系金融グループの信託、その後すぐに投信会社へ、そして投資顧問会社との統合準備、グループの提携先の日本法人の投信ビジネス立ち上げの支援と、環境の変化そのままにめまぐるしく役割は変わっていった。
1999年に英系保険グループが、そんな経験を見込んで、その日本現地法人の設立とビジネスの認可取得、投信ビジネスの立ち上げへの参加の要請をしてきた。それまでの経験を全て生かせるチャンスが到来した。

2010年4月18日日曜日

1990 - 1995 外資系投資信託会社事情 - 20世紀の遺物

1990年に初めての外資系運用会社に免許が与えられた。

1986年の投資顧問業法施行による外資系の投資顧問会社や、同じく1986年の外資系の信託銀行設立など、資産運用ビジネスが外資に開放され、その運用手法や投資対象に欧米で標準的に行われているものを取り入れつつあったのに比較すると、それまでの投資信託の業界は証券会社の完全子会社だけが免許を得て投信のファンドを運用するという、一種特殊な世界だった。

当初の外資系の投信会社は、運用は本国の日本株運用担当者を日本へ派遣して、日本人の運用担当者を指導育成しつつ現地での運用を行うという体制を引き、営業や業務管理については日本の市場や法制度に詳しい日本の投信会社の出身者を採用して任せていた。そこに大きな落とし穴があることにはだれも気が付かなかったし、気づいてもどうにも対処しかねるものだった。

それまで投信委託会社は14社しかなく、それもそれぞれ4大証券の系列の証券会社の子会社と言う中で投信の設定、販売が行われてきたところへ、全く独立したファンドの設定、販売戦略を持った外資系の運用会社が参入してきた事の重大さは今でもあまり議論されることはないが、当時の業界には画期的な事件だった。

基本的には親会社である証券会社の販売戦略に基づいたファンドの設定、運用を行うのが投信会社の使命であり、存在理由だった。つまり独自の運用手法や方針に基づいた設定、販売戦略と言うのは一切存在せず、営業部はなく、対販売会社の折衝は組織上は業務部と呼ばれる営業部隊が行っていた。つまり、営業ではなく単に証券会社の決めたことについて業務を進めるべくその要求を理解し実行することが求められていたのである。

そこに乱入したのが外資系の運用会社だった。外資系の運用会社は投信販売チャンネルを独占していた証券会社との直接の関係を持たず、当初のファンドの設定には相当な辛酸をなめた。1990年10月に日本のこの業界に参入を果たしたウォーバーグ投信、ジャーデン・フレミング投信は、そんな販売会社である証券会社中心の投信業界の環境の中で苦難の船出をしたのだった。

優れた運用をベースに販売戦略を立てるという、当り前の経営がなされていなかった当時の投信会社に、マーケティングやセールスを担う人間は育っていなかった。というより、そんな部門は無かった。外資系の投信会社は、販売チャンネルの開拓や販売会社との折衝の為、証券会社の投信企画の人間を高いお金を出して雇い入れようとしたが、もとより証券会社の投信企画は自社の営業部門の要請に応えようとする商品企画と自己勘定取引部門の為の投信を委託会社に設定させるための窓口。委託会社は、その運用能力を生かすとか、投資家のニーズにあった投資信託の設定などの発想は無く、優れた運用能力などを理解する姿勢や能力もなく、どうすれば証券会社が販売契約を結んでもらえそうなテーマや手数料体系にすれば良いか、しがらみだらけの経験から知恵を絞るのが精いっぱいという状況だった。

2010年4月14日水曜日

1990 - 1995 人間万事塞翁が馬 - 祭りの後

日本の資産バブルの絶頂期の90年に結婚し、中古の狭いマンションを高値でつかんで多額のローンを抱えた。自分で開発に係わったシステムや、それまで業務管理部門で築いた地位や経験を捨ててまでやってみたかった営業の職に1992年の夏、30歳を過ぎて初めて就いた。担当は資産運用ビジネスの顧客としては最悪期の金融機関だった。僅かばかり残っていた大口の顧客は、メキシコ債券ファンドが、1994年12月のメキシコ通貨危機で解約受付の停止を敢行し、ぼくは顧客とともに会社での居場所を無くしてしまった。

ぼくは慣れない営業職を潔く諦め、まもなく経験と実績のある業務管理の世界でやり直しをすることにした。外資系信託銀行のビジネスはすでに出来あがった既成の業界になりつつあり、年金や公的資金などの資産運用ビジネスの中心は外資の投信や投資顧問に移りつつあった。ぼくはそんな世界で生きていくことの覚悟を、遅ればせながら決めようとしていた。新卒から13年間勤めてきた会社を辞め、すでに日本で投信会社を有して、日本の資産運用業界に新風を吹き込もうとしていた別の外資系金融グループの信託銀行へと移籍した。

1995年2月、神戸大震災直後で地下鉄サリン事件直前の早春。初めての転職の決意に、密かに背中を押してくれたのは、その年、日本の球界からのサポートなしに単身アメリカの大リーグへの移籍を果たした野茂英雄の孤独な挑戦だった。

2010年4月13日火曜日

1993 - 1999 夜明けの来ない夜はない - ITバブルとミレニアムの頃

93年には戦後初めて非自民内閣の細川内閣が発足し、バブル景気で惰性のように伸び切った日本の社会にも変化の兆しが表れた。95年には日本人で単身初めて大リーグへ挑戦していた野茂英雄が、アメリカの大リーグで新人王獲得した。しかし同じころ、95年の神戸大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、日本の社会そのものも大いに揺れた時代だった。

それまで資産運用の中心だった法人の財務部や銀行、信託を中心とする機関投資家は、弾けたバブルから立ち直るまでの間、実際にはほとんどが二度と立ち直れずに、資産運用の市場からは遠のいていた。資金の出し手として代わって登場したのは、黙っていても毎月の掛け金を積み立ててくる企業年金や国民年金、郵便局や生命保険などの長期の積立資金の運用を預かる年金や機関投資家だった。1986年に施行された投資顧問業法により、当初は機関投資家や法人の資金運用を専門に行う専業の投資顧問業者が生まれ、バブル期を中心に証券系、銀行系、生損保系、外資金融系と外資独立系の投資顧問会社が乱立し、厚生年金法などの改正により、年金の資産運用へとそのビジネスを急速に拡大していった。

様々な業態から入り乱れて参入したこれらの投資顧問会社は、公的年金や厚生年金基金・適格年金の資金の運用委託を受けて一気に市場に溢れ出した。証券系をはじめ銀行系、生損保系、独立系、そして同様に外資系でも証券系、銀行系、生損保系などの投資顧問業者がそれぞれが得意とする、あるいはなけなしの運用手法を駆使して市場に参入を果たした。

また90年にはそれまで証券系10数社で独占してきた投資信託委託業の免許を初めて外資系の独立運用会社3社に対して与えられ、その後92年にさらに規制が緩和され、銀行系、生損保系の投信会社が誕生した。また、97年には投資顧問業と投資信託業の兼業も認められ、また98年12月の投信法や証券取引法の大改正により投信の銀行窓販などが始まると、その規模や数は一気に拡大していった。

時はまさに2000年問題をピークとした、ウィンドウズの普及期、インターネットの黎明期、95年の神戸大震災を機に一気に普及した携帯電話など、ITバブルがこれらの投資運用業者の業容の拡大に拍車をかけていた。

2010年4月5日月曜日

1989 - 1995 ベルリンの壁とバブル景気の崩壊の後 - 失われた10年

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊が象徴する東西冷戦の終焉と前後して日本のバブル景気がピークを迎えていた。でも、誰もそれが失われた20年の始まりだとは、すぐには気付かなかった。

日本がバブルにうかれ、それがはじけたことに気がつかぬ間に、民主化と経済の拡大が進んだ東アジアと、東西冷戦の終焉により旺盛な復興改革需要に湧いた東ヨーロッパ。世界の資金の大きな流れは相当程度に変化していた。しかしその急激で大きな変化によるひずみは、88年8月のロシア通貨危機、92年9月、93年7月の二度の欧州通貨危機、94年12月のメキシコ通貨危機へと繋がっていった。世界ではこれらのひずみをその管理下で望む方向での解決を図ろうと、アメリカはその影響力を発揮すべく、第三世界に牛耳られていた国連とは距離を置くGATTの延長線として95年に発足したWTO(世界貿易機構)においてその影響力を駆使し、自国有利のルールに基づく国際貿易自由化を加速しようとしていた。しかし、ミレニアムを迎えようとする99年のシアトル閣僚会議は、時の流れを止めて、変わらない夢を求める者たちによって予定されていた成果を得ることが出来ず、一旦この流れは収まったかに見えた。

80年代に蒔かれた変化の種は90年代に世界を大きく動かして行ったと同時に、ぼくの人生を大きく変えていくことになった。バブルのはじけた後の日本の金融経済の構造変化や世界の資金の流れの変化も知らず、個人的な興味から金融法人営業部に自ら異動したぼくを待っていたのは、塩漬けの金融資産を抱え、広げすぎた外国投資からの撤退するタイミングを見計らっていた日本の銀行、信託をはじめとする金融機関だった。

そんな激しい金融業界の構造変化、資金の流れの変化の流れに翻弄され、3年を待たずして次の流れの中へ身を投じることになった。外資系特有の内からの圧力と、外からの圧力と、絶妙なタイミングだった。