日本の資産バブルの絶頂期の90年に結婚し、中古の狭いマンションを高値でつかんで多額のローンを抱えた。自分で開発に係わったシステムや、それまで業務管理部門で築いた地位や経験を捨ててまでやってみたかった営業の職に1992年の夏、30歳を過ぎて初めて就いた。担当は資産運用ビジネスの顧客としては最悪期の金融機関だった。僅かばかり残っていた大口の顧客は、メキシコ債券ファンドが、1994年12月のメキシコ通貨危機で解約受付の停止を敢行し、ぼくは顧客とともに会社での居場所を無くしてしまった。
ぼくは慣れない営業職を潔く諦め、まもなく経験と実績のある業務管理の世界でやり直しをすることにした。外資系信託銀行のビジネスはすでに出来あがった既成の業界になりつつあり、年金や公的資金などの資産運用ビジネスの中心は外資の投信や投資顧問に移りつつあった。ぼくはそんな世界で生きていくことの覚悟を、遅ればせながら決めようとしていた。新卒から13年間勤めてきた会社を辞め、すでに日本で投信会社を有して、日本の資産運用業界に新風を吹き込もうとしていた別の外資系金融グループの信託銀行へと移籍した。
1995年2月、神戸大震災直後で地下鉄サリン事件直前の早春。初めての転職の決意に、密かに背中を押してくれたのは、その年、日本の球界からのサポートなしに単身アメリカの大リーグへの移籍を果たした野茂英雄の孤独な挑戦だった。
2010年4月14日水曜日
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