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2010年4月5日月曜日

1982 - 1990 日米円ドル委員会からの金融市場開放の日々 - プラザ合意とウルグアイ・ラウンドからバブルへ

ぼくが外資系金融機関に就職したころから始まった日本の金融規制の緩和は1983年の日米円ドル委員会の提言を受けさらに加速、まさに国内の金融市場が国際競争にさらされようとしつつある局面にあった。

1985年9月22日に発表されたプラザ合意、翌86年9月に始まったGATTのウルグアイ・ラウンドはこれに拍車をかける。84年の外為実需原則の撤廃、85年の大口定期預金金利の自由化、87年のCP市場の創設、ワラントや転換社債の規制緩和。さらに86年の投資顧問業法の施行、特金やファントラと言った金銭信託による運用商品の普及。金融市場の開放を受け、急激に拡大した日本企業の資金の調達とハイリスクな投資運用は、膨大な借金と不良資産を残し、同時に金融機関は膨大な不良債権を残した。

82年に入社して2年間の財務部で銀行ビジネスの構造を学んだぼくは、まさに実需原則の撤廃された外為市場の業務の現場を経て、さらに外資系金融に解放されたばかりの信託銀行設立に駆り出されいった。これは83年11月の日米円ドル委員会の発表した4つの金融自由化の目玉の一つであったのだが、そこでは有り余る資金を初めて投資運用の世界に投じようとする企業の、政策投資以外の経験のない金融機関の羽目を外した無茶な投資がまかり通っていた。そんな中で地道に始まったのが、外資系信託銀行による海外を運用拠点とする国際分散投資。当時はまだ限られた機関投資家しか海外投資の経験は無く、まさに外資系の金融機関が日本の一般企業の資金運用や年金の運用市場に初めてもたらしたものだった。また、1987年6月9日に取引が始まった日本初の株式先物取引の株先50、続く88年9月3日の日経225先物の取引や89年6月の日経平均オプション取引も運用市場をさらに拡大させるものだった。

84年に1万円を超えた日経平均は、87年に2万円、88年には3万円を超え、89年の12月29日には史上最高値の38,915円を記録した。さらに都心部を中心とした不動産価格はそれ以上の上昇を示していた。

1986年に営業を開始したその外資系信託の受託資産は倍増に次ぐ倍増を重ね、90年暮れには一兆円を超える資産を運用していた。ぼくは自分一人で設計、コーディング、運営していた管理システムが2年を待たずして破綻するのを予測し、外人のプログラマーにシステムのリライトを依頼して、その運営を任せていたが、そのころにはそれさえ限界を迎えようとしていた。

会社はそんな僕にボーナスの代わりにご褒美として2か月の英国でのInternational Trainingに参加させた。昭和天皇の崩御の数カ月前の入退院を繰り返していた1988年の暮れのこと。帰国した僕を待っていたのはパンクしかけているシステムのリプレース・プロジェクト。そしてぼくは当時のアジア太平洋地区のシステム開発拠点だった香港で1990年から2年間、システム開発のプロジェクトチームと一緒に過ごすことになった。

バブル景気が永遠に続くと信じられていた1990年の春。20年前のこと。

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