1970年3月、小学校5年生になる春休みに開幕した大阪万博は、人類の進歩と調和をテーマに、アメリカがアポロ宇宙船で採取してきた月の石を展示したり、当時のソ連館に展示されていたソユーズ宇宙船。また、今では当たり前になったけれど、会場内を移動できる動く歩道や電気自動車、モノレール、奇抜なパビリオン、50年後の日本をテーマにした三菱未来館、当時の電電公社のテレビ電話やなどもぼくの好奇心をすこぶるあおった。
大阪の北部に住んでいたぼくは、比較的距離が近いのもあって、かなり頻繁に万博会場へ足を運んだ。母親に連れられて兄と3人で、親父の運転するスーパーカブの後ろに乗せられて、禁止されていたけど土曜の午後に友人と2人でと、密かに全館制覇を目指して通っていた。
光化学スモッグと、なぜか男が立てこもっていた太陽の塔。人類の辛抱と長蛇、と揶揄されながらも日本のちょっと胡散臭い、そして輝かしいだろう未来の、むっとする熱気が漂っていた。また、初めて外国人をまじかに見た驚き。サイン帳を持ち歩いて外国人にサインをねだるのが流行りだった。あのサイン帳、どこに行ったんだろうか。
ちょっと胡散臭かったけど、確かに輝かしい未来が僕たちに約束されていた1970年の春。40年前のこと。
万博から10年、怒涛のような70年代が過ぎて行った。ニクソンショックからスミソニアン合意を経ての変動相場制への移行とそれに続いて起きた73年、79年の二度に渡るオイルショック。佐藤長期政権のあとの田中角栄内閣と、その後続いた黒幕政治による混迷。そんな混迷する社会の中で生まれたパーソナルコンピューターや爆発的なブームを呼んだテレビゲーム。ぼくはまじめでおとなしい中学生から、受験勉強はそこそこに水泳に明け暮れた高校生を経て、何とか第一志望で入った大学で、だらしのない生活を日々過ごしている大学生になっていた。
度重なるオイルショックからの回復と列島改造プロジェクト、育ちつつあった電子関連産業が日本の産業界の風景を変えようとしていた1980年の春。30年前のこと。
第二次オイルショックの後の不況から日本の経済が回復しつつあるころ、就職活動をしていた。内外の国際金融情勢からか、すでにバブル期の前兆が現れていたのか、金融機関は積極的に採用を進めており、天邪鬼のぼくは当時はまだだれも見向きもしない、あるいは敬遠していた某アメリカ系の商業銀行の東京支店に就職を決めた。
81年には新銀行法、83年4月の銀行による国債の窓販、同11月には日米円ドル委員会が大口預金金利の自由化や外国為替取引の実需原則の撤廃、円建BA市場の開設や外銀による信託業務参入などを提言し、日本の金融市場はその開放を迫られていた。そんな流れの中での外資系金融人生のスタートだった。1982年春のことである。
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